水村美苗「私小説」

忙しいのに加えて飲み会がかさなり、それでも酔っ払って家に帰りついてからなお、寝床で毎晩少しづつ読みながら、かつての自分の姿をその話の中に鏡のように見るにつけ、唸りながら寝返りし、腕組みしては思い出にふけったりしているうちに朝の鳥のがなきはじめ、そうこうして小説が終わる前に疲弊して病気にかかってしまった。吐き気がひどく熱が出て完全にダウン。そのまま寝床で読み終えた。
まずは先日のコメント欄、id:sujakuさんによる秀逸な紹介文から。

雑誌連載時のタイトルは、なんと『日本近代文学 from left to right』でした。
親はウキウキとアメリカへ移住したものの、連れてこられた2人の娘たちは、<教室のなかのアメリカ>という現実に直面。そんななか主人公の美苗は、心を閉ざしながら、一心に、樋口一葉から太宰治までの”日本近代文学”を読みふけってゆくんです。
物語の冒頭では、降りしきる雪の日、彼女は大学院卒業間近で、もうすぐ外の現実へ出てゆかなければならない、震えるような不安が語られ・・・そこから回想がはじまってゆくのでした、ときどき英文のパラグラフを織りまぜながら・・・

米国における日本
書きたいことはいろいろあるような気もするのだが、よく考えると「私小説」をそのまま読んでもらえばいい、といいたくもなってしまう。それほどこの本に出てくる感情の推移は、私の経験したことに近かったのだ。12歳で親に連れられて渡米した私は、あまり深く考えていなかった「言葉がわからない」という事態を始めて小学校に登校した日に迎え、その衝撃もさることながら次の日から私は日本に帰る日のこと毎日考えて過ごしたのだった。インターネットなどない時代のことである。私にとって「日本」は書物の中の日本語だけに存在し、日々日本語の本に逃避する日々だった。私が読んだ本は12歳の水村美苗が徹底して惑溺した黴のにおい立つような「近代日本文学全集」だけではなく、濫読だった。父の前任者達が代々置き去っていった読む価値のないようなハウツーものや、歴代の芥川・直木賞作家の小説をよくわけもわからず読んでいたのもその小学生のころだった。同じ小学校にいた唯一の同学年の日本人の男の子に(彼は長期滞在者だった)「これおもしろいよ」と貸したのが村上龍の「限りなく透明に近いブルー」の単行本で、すぐさま先方の親からうちの親に「お宅はどんな教育をなさっているんですか」と苦情の電話がかかってきたのを、よく憶えている。
日本に帰りたい、という思いはそれこそ「私小説」に出てくるような問題が次々と生じ、やりきれない気分になるたびに強まっていた。私は日本から持参してきた地図帳を眺めては、ここからこんな風に歩いて、アラスカを経由してベーリング海峡をどうにかして渡り(ここが一番の問題だ、と頭を抱えた)、そうしたら日本海までまた歩いていける、などと本気で夢想していたものだ。今思い出しても暗い気持ちになる。だからこそ余計に私は水村美苗の描く彼女の少女時代の心象風景が痛いほど伝わってきて、それこそやりきれなくなってしまったのだった。
帰国した中学三年生の頃には授業にも慣れて、自分でこんなことを書くのも恥ずかしいが、ストAの優等生になっていた。私が特に出来たのは、数学と美術だった。数学のクラスは上、中、下に成績順で分けられていた。クラスの中の席順もほぼ毎日行われるクイズの総点で決定されていた。(学科によってクラスを移動するので、それぞれ席が決まっていた。)数学にはライバルがいて、中国人のとても頭のいい男の子だった。彼と日々、主席である教卓の前に一つだけ飛び出して置かれた机を奪い合っていたのを、あれは自分だったのか、と不思議な気持ちで思い出す。勝つことが重要だった。数学にしろ、美術にしろ、英語の能力があまりいらなかったからこそ、アメリカ人に私は負けたくなかったのだ、と思う。そしてライバルの中国人とは一度も親しい話をしたことがなかった。別のクラスでコンピューターのプログラミングがちょうど導入された頃で、このクラスでは私とその中学生のほうが、先生よりもはるかにプログラミングに上達していたので、二人でアシスタントのようなことまでしていた。なんとなく憎たらしく、でも共に闘っているような気がしていた。水村美苗のいう「東洋人」の意識だ。
そのころには夢も英語で見ていた。しかしそれでも学校から帰った自分の生活の中で日本語に耽溺することは相変わらずだったし、友達と外に出て遊びにいくこともなかった。徹底して自己に沈潜していたのは、水村美苗と同じ理由である。私が帰る場所は日本であり、それは日本語に他ならなかったからだ。それがあればこそ、私はさまざまな問題に立ち向かっていたのだし、アメリカの学校での生活はいわば仮の姿で、本に夢中になっている自分が本当の自分なのだった。
帰国する直前になって、美術の先生が「奨学金を用意できそうだからこのまま米国にのこらないか」という話を持ってきた。くどいほどオポチュニティーの手をやさしく差し伸べるアメリカ、と水村美苗は書いているがまさにそのとうりなのだ。あのまま素直に一人米国に残っていたら、私もまた水村美苗のように美大に進んで途方にくれていたのかもしれない。私の場合はとてもはっきりしていた。日本に帰ります、と即座に私は答えたのだった。なんで日本に帰りたいのかしら、という美術の教師の怪訝な顔つきは今でも忘れない。私は断った瞬間に、やっと米国に仕返しをしたような気になっていたのだった。

interlude
熱にうかされながら、寝床で副題の"from left to right"という言葉を何度も思い返していた。背表紙の解説では、横書きでしたためられたこの本の体裁をさしている、というようなことだったが、私にはどうしてもそれだけには思えなかった。日本で世界地図を見ると、日本から米国へはちょうど左から右への移動になる。一方、米国で世界地図を眺めると米国から日本へはこれまた左から右への移動になる。前者の場合、地図が大西洋で分断されているからだし、後者の場合は太平洋で分断されているからだ。どちらにいても"from left to right"。常にここではない、と思うようになってしまった私をそのまま表しているような気さえした。

日本における米国
アメリカから帰ってきたのは中学3年生のときだった。おりしも校内暴力さかんな時に中でもNHK特集に取り上げられたほど校内暴力の激しい公立中学だった。あれほど憧れていた母国の匂いを胸に吸い込む間もなく、ほこりと教師・生徒の暴力にまみれる学校にアメリカの田舎ですっかりボケた中学生として転校してきたのである。まずは教室内を埋める不審の目つき、ヤンキーかあ、とささやく声。そのころのヤンキーという言葉は今とはちがって昔風にアメリカ人を揶揄することばだった。ちょうどジャップに対応する。アメリカでさんざんジャップと呼ばれ、俺は日本人だとケンカしてきた私には傷口に塩を塗りこまれるような言葉だった。俺はヤンキーじゃない、日本人だ、といきまけば巻くほど彼らは冷笑した。それが廊下ですれ違うたびの膝蹴りや突然囲まれての袋叩きに変わるのには時をまたなかった。中学自体もひどい状態であった。跋扈する暴力に一人の転校生など相手にできるわけがなかった。教師も退廃していた。事実、私が卒業したあとに教師の一人が婦女暴行、それも自分の生徒に対する犯罪で捕まっていた。その教師とはまた別の教師が、女子生徒に穏やかならぬことをしたり、下着を盗んでコレクションしていたことも知っている。体育教師はおなじみの鉄拳制裁で威厳をたもとうとしていた。ちからのない教師は男だったらなるべく問題から関係ない、という態度を示し、女の教師は泣いて抗議したり授業を放棄した。教師たちの心もすさんでいた。
そんなわけで私はもう一人の転校生と共闘した。孤立した転校生同士ほど良い味方はいない。彼は隣の中学から強制転校させられてきた札付きのゾク上がりであり、警察がその中学の組織を解体するために、トップの幾人かを別々の中学に転校させたのである。彼は徹底的に無視されていた。恐怖もあっただろうが、毎日校門のそとで待ち構える彼の敵グループがXXを知っているか、と帰宅する生徒を殴って詰問するのである。関わりたくなかったのだろう。そうこうするうちに私もバイクの無免許窃盗で警察につかまり、警察で貨幣の詰まった小銭入れで殴られ、蹴られ、共犯だった彼との仲が深まったのだった。まず一人一人を呼び出すことからはじめた。トイレの個室、校舎の裏にある焼却炉の陰、高速道路の高架下などで最初は慇懃に、そして彼はいきなり態度を豹変させ太い皮のベルトをさっと抜いてものすごい勢いで相手を痛めつけるのである。あるいはひたすら太ももの特定の箇所を蹴り上げる。「モモキン30分でへろへろよ」と彼は言っていたが確かに30分、太ももの外側の部分を蹴りつづけられると大抵は崩れ落ちて涙を流しながら許しを乞うのを目の当たりにした。かくして私は理不尽な暴力を受けることがなくなったが、彼との付き合いが重荷になりはじめた。何しろ激烈な国道20号線沿いの暴力をそのまま駆け抜けてきた人間である。敵のゾクをつぶすためには何でもした、と彼はいった。敵のヘッドの家に深夜しのびこみ、3人がかりで布団の上から木刀で文字どうりの袋叩きにしたのだそうだ。
最近付き合いわるいじゃねえか、と一緒に歩いている秋のある日に彼がいった。高校に行く、と私はいった。ハンパすんじゃねえ、といきなり彼は私の顔を殴った。タイマンだよ、と彼はいった。タイマンには仲裁が立つ。決着がついた時には仲裁が止めに入る。秋の始まりの駐車場だった。殴れよ、と彼がいう。顔を殴ったが、彼は顔を振り払っただけで白眼がちに私を眺めている。ちゃんと殴ってみろ、と再び言う。力をこめて私が殴り、彼が唸り声を上げて殴り合いが始まり、私は胸に連打を受けて息が止まりそうになった。やっとこみ上げてきた怒りに彼の顔に何発もパンチを見舞う。彼はふらっとしたかと思うと、コノヤローと声にならぬ声をあげながらどこからともなく出てきたビール瓶を手にし、凄まじい音と共に叩き割った。破片が飛び散り、時間が一瞬止まった。私はそのぎざぎざになったビール瓶を凝視した。きらきらする断面がいかにも残虐だった。次の瞬間、彼は右手に割れたビール瓶をかざして怒号をあげながら突進してきた。私は全速力で逃げた。駐車場のフェンスにとびついて乗り越ようとすると、仲裁が止めに入った。そんなわけで私は彼と別れた。あのとき彼がビール瓶をわらなかったら、私は高校に行っていなかったかもしれない。
彼と別れた私は保健室に通った。他に居場所がなかったのだ。わざわざ保健委員に立候補し、なにかと理由をみつけて保健室に入り浸った。保健室の人種は多様だ。不良、オタク、病弱、いじめられっ子、学級委員長。保健室はアナーキーで学校の権力が届かない唯一の場所だった。保健室の外では互いのことを見えないぐらいの関係のオタクと不良が仲良く話し、不良が病弱を心配する。マンガを交換し、噂話をする。すきさえあればどこにいくでもなく保健室にたまり、私はそこで何を話していたのかさえも憶えていない。ただ、そこは安全な場所だったことだけを憶えている。

7年後のことである。私の大学は敷地が広く周りを森で囲まれている。9月の暑い日の昼下がり、実験の合間に一人で敷地の境界を沿って森を散歩していた。濃い緑の草いきれでむんむんし、虫の声がのんびり聞こえる。すると突然、のんびりした景色を引き裂くようにコンクリートの壁の向こうから鋭い笛の音が聞こえた。コンクリートの隙間を通して隣を覗くと隣は公立中学校の敷地だった。白っぽく乾燥し砂漠のような更地の運動場、きおつけの姿勢で一定の間隔でならぶゼッケンをつけた白い体育着の中学生達が強い日光にさらされて微動だにしていない。朝礼台の上に仁王立ちするジャージ姿の男が笛を吹いていた。生徒がいっせいに動きはじめる。土ぼこりが舞っている。悪夢のようだった。壁を隔ててこちらには豊かな森があり草があり私は虫の声にあわせて鼻歌交じりに散歩している。向こうでは無機質な運動場でまだ自我もしっかりしていない中学生達が命令され土ぼこりにまみれている。刑務所をのぞきこんでいるようだった。私の心は中学生のあのときの気分へと一気に引き戻された。胸が閉めつけられるように苦しくなった。そして私がそこにいないことに心の底から感謝したのだった。