すべての女が求めているのはなにか

この高校の世界史授業には瞠目した。とてもおもしろい。なぜこの話がとてもおもしろいと私は思うのか、という話を以下の引用のあとにするが、授業自体のテキストを最後まで読んでからでないとなにをいいたいのかわからんと思うし、ネタバレ的でもあるので是非読んで欲しい。長いテキストではない。

第1回  最初の授業
1,解説

新学年最初の授業は生徒も教師も、相手を探って独特な緊張感があふれています。生徒は教師を値踏みしています。面白いか、つまらないか、怖いか、怒るか、甘いか、厳しいか、いい加減な人か、親身になってくれるか、教師集団の中で重いか軽いか、等等、、、。この1時間目に、生徒にどういう印象を与えるかでその後の一年間の授業のやり易さが決まります。
同僚たちは自己紹介や、休み中の体験を話して、授業にはいるのが一般的のようです。生徒は、授業をしないことを熱烈に期待しています(私も高校時代はそうでした)。できるだけ、彼らの期待にそれなりに応えながらも、単なる雑談でもなく、またこれからの授業に少しでも期待を持たせる。そんな作戦で考えたのが、「最初はお話をする」です。
(続く)
timeway.vivian.jp


「すべての女が求めているのはなにか」という寓話であるわけだが、実は女に限った話ではなく、意志を持つということの不思議さとその根源に触れるような、そのような内容だと私は思った。「意志を持つことを望む」は英語だと”will to have one’s will”となって自己言及的な意志の再帰性があるので動的な精神の活動が表現できる。直訳すると「意志を持とうとする意志」になるがこの日本語だと再帰性のあるダイナミクスがいまいち表現しきれていない。英語の"will"は「意志」のみならず、純然たる未来形として機能するので、再帰的な円環が作動し、個人の中で意志というポテンシャルが高まっていく状態をうまく表現できる。この再帰性をもう少し紐解いてみる。

「意志をもつ」にはまず自分のなんらかの意志を自分で発見する、あるいは見いだす意志が必要があり、その前提としてそれを言葉などの表現によりロゴスとして表象する能力が必要である。旅はその発見の過程であり、魔法は、その意志が見えていないという「呪い」のことである。もう少し具体的に説明すると、笑いは意志であり、泣くことも意志であるが、意志が枯れていればいずれの場合も無表情であり、感情は表出されることはない。通常、これはポーカーフェイスと呼ばれ、笑いや悲しみの感情を心の中に押し隠し、無表情を装っている、と解釈されることが多い。しかし、あえて無表情なのではなく、感情を表出しようという意志そのものが弱りきって無表情になった状態の人間も存在する。たとえば、隷属状態にある人間。感情の表出がそれに呼応する感情に迎えられなければ、意志は枯れ、感情の表出は死に絶える。さらにそれ以前に、笑ったり泣いたり、という感情の表出手法を習得していないゆえに、表出が不可能である、という状況の人間も実際にいる。戦争の中で孤児として育ち、そうした感情の表出方法を知らない子供もいるのである。こした無表情の場合は、笑いや泣く、といった原初的な感情であってもその表現手段をまず知ることが必要になる。ヘレン・ケラーが「水」という表現を獲得した時の様子は、多くの人が知っているのではないだろうか。ましてやなにかの奴隷であることを自覚しそこから離脱するには強力な意志の醸成が必要となるが、枯れきった意志からそのポテンシャルをいきなり生み出すことは難しい。困難であるが、その困難を乗り越える第一歩は、意志、という表象の獲得である。

この困難克服の過程(あるいはハッキング)が、アーサー王の騎士物語の寓話として描かれている。老婆=美女は「すべての女が望んでいること」の答えをまずはアーサー王、次にガウェインに与えることで、意志を持たぬ存在という魔法から順次、自らを解放した。「意志を持とうとする意志」という表象をなぞなぞの形式で他者に示し、そのことに対する他者から答え、という形でフィードバックを受ける、というやりとりを段階的に繰り返すことにより、意志の存在を無から有へと確定してゆくのである。意志が枯渇した状態と意志を持った状態との止揚による意志の生成がそこでは起きている。コンピュータでいえば、ブートストラップ問題を抜け出すための手法ににている*1。結局それは無意志の宿痾に絡め取られた一人の女が「意志をもつ構造」のリバースエンジニアリングで自らを意志的存在へと解放したお話、なのである。

翻ってみれば、この物語が広い共感を生むのは*2、「すべての女が求めているのは意志をもつことである」というメッセージが提示されることで、自らの「意志を持つことを望む意志」を発見、あるいは見いださせることにあるのであろう。つまり、この物語が意志の存在を覚醒させる、あるいは再覚醒させるのである。「これは水だ」とサリバン先生がヘレン・ケラーに伝えたように。

男視点で読むと、「醜い老婆になる魔法をかけられたかわいそうな美人が立派な騎士と出会い救済される」とか「男に意志を認めてもらって解放された女」とか、そっちのポイントを拾って読むので、意志を解放したのがそもそも自分自身であるというお話の核になっている構造をスルーするかもしれない。

この世界史講義第一回を読んで、以前夢中になって読んだ中沢新一の「カイエ・ソバージュ」5冊を思い出した。上の私の読みのような考え方に興味ある人にはおすすめである。まずは「人類最古の哲学」。シンデレラの北米ネイティブバージョンでは、意志的で凛としたシンデレラに出会うことができる。

bookclub.kodansha.co.jp

*1:wikipediaからの引用:「ブートストラップ問題 (Bootstrap problem) は、コンパイラコンパイル対象のプログラミング言語で作成した際に、そのコンパイラの最初のコンパイルをどうするかといった場合を典型的な例とする、いわゆる「鶏と卵」の形をしたセルフホスティング環境の問題を指す。これを解決するための方式をブートストラップ方式といい、この問題を何とかして最初の完備した環境を作ることをブートストラッピングという」

*2:この講義をツイッターで紹介したら、1万6千件のリツイート、6万件のライクをもらった