”機械”関連

民主党社民党が女を産む機械とはなにとぞ、と糾弾して辞任要求しているのがなんとなくアホっぽくみえてしまうんだけど、額面どうりにうけとってはだめである。共謀罪審議だの密告義務法案だのを見越したまさに政治戦略と解釈すべし。ところで

 ただ、問題となっている「女性は子供を産む機械」という言葉を英語にすると"baby-baring machine"とか"child-making device"ということになるわけで、「マシーン」とか「デバイス」という「字面(じづら)」は何ともはや刺激的です。そう考えると「余り話題になっていない」こと自体が、日本の男性政治家がこの種の失言をしても「誰も驚かない」という予見があるような気がして何ともイヤな思いがします。

『from 911/USAレポート』第288回 「世論との対話力」
冷泉彰彦
http://ryumurakami.jmm.co.jp/

”誰も驚かない”のは極小電子ガジェット、ブレードランナーの都市、攻殻機動隊的な日本のイメージや、グレースーツにメガネをかけた人々が機械のように働き続ける日本、というステロタイプになんとなく"child-making device"がはまってしまうのだろうなあ。それよりもこの失言関連で私がなるほどーと思った反応は大西巨人さん。さすが大御所、明察。

それとは別に、僕が『おや?』と感じてここで採り上げたいのは、柳澤の用いた「装置」なる言葉である。彼の内心に“女性に対する蔑視”がどの程度存在していたかは不明だが、仮に「機械」という言葉を文字通り“女なんて子供を産むだけのもの”という趣旨で口にしていたならば、それに――言わば自然に――続く文句は「道具」ではなかろうか。ところが、そこで柳澤は「装置」という口語的ではない選択を行なっている。

 「装置」とは、辞書によれば「明治期に apparatus の訳語としてつくられた語」(『大辞林』)などと説明されているけれども、日常生活において単独の形で頻繁に現われる言葉ではなく、精々「安全装置」や「防音装置」や「舞台装置」のように組み合わせて使われるか、あるいはむしろ「自動列車停止装置ACS)」「緊急炉心冷却装置(ECCS)」「中央処理装置(CPU)」など、堅苦しい日本語訳の中に登場することが多い。そして、それらとも全く別個にもう一つ思い浮かぶのが――レーニンが国家の本質を「暴力」と規定し、その国家権力が行使される手段としての警察や軍隊などを呼んだ――「暴力装置」という言葉である。僕は、柳澤が「機械」と併せて「装置」と発言した話を聞いて、すぐに「暴力装置」を連想し、『この人も昔は、こういう用語に慣れ親しんだ“左翼”だったのかな』と空想した。そうでなければ、こんな言葉がサラッと口をつくことはないのではないか?

 そこで、好奇心に駆られて柳澤伯夫を検索してみると、1935年生まれで1961年に東京大学法学部を卒業して大蔵省入省というから、いかにも「60年安保」の時代を過ごした世代である。もっとも、それ以上に何らか直接的な運動との関わりは見当たらなかったのだが、面白い事に、つい先頃、『日本経済新聞』の「こころの玉手箱」――「著名人が人生の転機を語る定期コラム」(同紙サイトより)――というコーナーで、柳澤は、エンゲルスの『空想より科学へ』を採り上げていたらしい。現物は未見なので迂闊な事は言えないけれど、わざわざ「人生の転機」と銘打たれた「こころの玉手箱」としている以上、あの有名な一冊は、今でも――あるいは、立場上、現時点では反面教師としてであっても?――彼の精神の深奥に刻まれた存在なのだろう。うーむ、やっぱり……。

大西 赤人 『今週のコラム』