エリート文学と大衆文学
水村美苗がその語りの対象としているのは実にマイノリティな人々なのであって、「日本人たるものこの本を読むべし」というような内容ではないはずである。内輪のサロンでひそやかにささやかれている話。大衆文学というものがありましてね、英語の席捲もあっていまやホンモノの日本文学は瀕死の体、ご臨終。まことに悲しいことよ… かくなる実に不健康な話なのである。そしてここでいうマイノリティとはエリート。そしてエリート文学。
エリート文学、そんなものを年中気にしている人間は日本語を話す人間全体の中でほんの一部である。そのほんの一部の人たちが「ああ、わたしたちの考える日本文学、それがいまやほろびてゆく」。そうため息をついている、そんな内容の本を毛語録のごとく高々と掲げ、こめかみに血筋を浮かばせながら「日本人は全員読め!」って*1。そりゃ無理。あちらこちらにみかけた水村美苗のこのところの意見を眺めても、やはりこれは水村美苗が想定するエリートに限ってかたりかけている話であって、あるいはもうすこし譲ってもエリートの存在を認識したうえでその語るところを理解せよ、なおかつ国語教育という意味でのエリートの再生産のために教育はかくあるべし、といったたぐいの話なのである。
これはたとえば「この国のかたち」を憂いながら死んだ国士司馬遼太郎の話ではまったくない。それがなぜか「この国のかたち」日本語の危機編、全国民よ結集せよ、みたいに扱われているのをながめて、そりゃちがうでしょ、と私は思った。しかも一部ではなんかこれまた(ほんとにまたでたよ)国民統一戦線とかそうした形で回収されそうな勢いまであって、その様を眺めるに、もう、ネタはなんでもいいんですね、と思ってしまう。
批判するとすれば、これは「パンがなければ」云々といった故事に類する話なのであって、その徹底的な「上から目線」ならぬ「上だけ目線」を評し批判すべきなのである。したがってこの論において「僕たちはハッピーだから大衆文学でいいのだ」とい反論してみても意味はない。だって関係がないのだから。
ありうる反論。ごく簡単にいえば「アナタのいうエリート文学よりアナタがよんでいない”幼稚な大衆文学”のほうがすごい」といった反論以外、ありえないのである。仲俣さんみたいにね。これは決して英語対日本語の話ではない。我々にとって文学とはなにか、という話である*2。「警戒警報!日本人は全員読め!」に目をくらまされてはいけないのである。
[追記] コメント欄のtemjinusさんへの返答。(リンクをいろいろつけたので、本文に。)
昨日から今日の間に、仲俣さんが批判の続きを書かれていて、日本における大衆文学についても説明されているのでそちらが参考になるかもしれません。要は、ここでいうエリート文学はとても狭く、近代日本文学なのです。エリートと大衆の文学、という点でも私みたいなぐたぐたなヨタではなくてちゃんと書いてあります(関係ないけれど、某有名ブロガーがこの本について何度も興奮気味に触れていますが、そのもっとも最近のエントリーで「わたしにとっての日本文学は星・筒井・だれそれなどのSFだ」と書いているのを見てマジで目をうたがった、というか、彼にとっての文学がなんであろうとかまわないのだが、それだと水村美苗の意見を否定することにしかならない。まったくよめてないんだなーと思った):
なお、わたしの問題意識は、こうしたエリーティズムを対象にしているのではなくて、水村さんの本が国民動員的な発想の持ち主の方々に回収・利用されてしまうこと、あるいは文学がそうしたかたちで「国文学」になってしまうことに対するものです。このあたり、なんというかこのところの「革新のツラで新たに現れる社会大衆党」的なるものの動きとこれまた同期しているのが気になるのです。この問題を対象にしている記事はワタクシの見方ではあちらこちらにありますが、最新のものではこのあたり、かな。
共感だけでつながって、形式がどうでもよくなりはじめている風潮、というのか。またの名を文革2008とわたしは呼んでいます。なおわたしは文学のエリーティズムは放置すりゃいいじゃん、というか文学はそんなものでもあるとわたしは思っているし、なおかつ私は水村さんが12歳に渡米した経験をつづった「私小説」に、おなじく12歳で渡米した人間として大変感銘を受けた人間なので(この感銘は文学に対する感銘というよりも経験の重なりによる感銘だったと思いますが)、今回の件の本に関しては動員の発想がちらほら見受けられるのでとても気になるのです。おいおい、それでいいのかよ、というような。エリート自称ならば泰然自若と完璧な「上だけ目線」エリートでいればいいのにな、と思う。そんなわけで来週日本からやってくる客人に本をもってきてもらうことにしました。ちなみに以前書いた「私小説」に関する拙記事はこちらです:
なんともう4年前か。ほとんどラブコールな内容ですが、まー、自分の経験を言葉にしてもらったというか。
なお、註に引用したのはリービさんの発言ではなく、水村さんの発言です。nesskoさんが指摘されているように、わたしの引用の仕方がまずかったです。混乱させて申し訳ありません。わかりやすいように訂正します。
*1:あるいは「すべての日本人がいま読むべき」
*2:たとえば以下の水村美苗の2007年の発言を参照にせよ。文学における「頭の階級」の存在について考えるということが今回のトピックでもあるのである: 『気がついたらみんなが本を読める時代にとっくに突入していた。大衆が本の市場を左右する社会に突入していたんですね。でも、日本人は大衆化というものについて考察したがらない。貧乏だったのと、マルクシズムが強かったのとがありますが、そこにさらに農耕社会固有の共同体至上主義が重なって、そもそも大衆についてネガティヴに語ることがタブー視されているんだと思います。でも実際は大衆が本の市場を左右すれば当然起こることが日本でもちゃんと起こっている。同じ文学と名がついても大衆が読む本と一部の人間が読む本とが二分化されるということですね。ただ、それが自覚されていない、というよりもそのことを自覚することに抵抗があるんです。でも自覚しないと、そもそも文学の価値について云々できなくなってしまうでしょう。流通システムも含めて、まともな文学をどうこの大衆文化のなかで残すかという、先進国に共通したそういうあたりまえの問題について話せない。』 リービ英雄と水村美苗の語る日本の階級構造@mmpoloの日記より、リービ英雄「越境の声」(岩波書店・2007)における水村美苗の発言を孫引き。