学術と不安

日本学術会議批判

00年代の従軍慰安婦の歴史修正問題は1998年に出版された小林よしのりの漫画「戦争論」を契機とする。研究者が発見した資料やその背景説明に対する、読まずしての否定や無視、牽強付会な史料解釈、チェリーピックでお話を作り上げる“The Facts”な人々に、どれだけ丁寧に説明しようが理解や態度変更そのものへの意欲がないらしく空振りが多かった。この立場の方々にとっては、自分がよって立つところのアイデンティティである「日本人」が、いかに揺らぎなく清廉潔白で優秀な人々であるか、ということを示す第一目的に比すれば、歴史の中で何が本当に起きたかということは、さほど重要ではなく、それどころかより正確な歴史解釈を説く研究者を、それが人聞きが悪いとでもいわんばかりに「日本人を貶める存在」として捉えることになった。

目下の学術会議に対するマジョリティの反感*1はこれが全面化したものだ。日本における政治、経済、人権の現状を、研究者、専門家、学者の目から見れば批判しどころ満載、糾弾すべき点続出でありそれはきつい批判にならざるを得ないが、上記の第一目的からすれば、それは「利敵行為」に他ならない。したがって今目前で起きているのは、反知性主義ではなく、まさに国家主義なのである。実は私も少し前までは「反知性主義」と思っていた。

かつて20年ほど前にその初期の姿を小熊英二は「癒しのナショナリズム」と名付けたが、今や単に「攻撃的なナショナリズム」に変貌した、ということなのである。その一方で、対抗する言論の側、「ペンは剣より強し」であるはずの側は同時進行するメディアの形態の根本的な変化の荒波に乗ることもできず撃沈近し、という様相である。「癒しのナショナリズム」が「攻撃的なナショナリズム」となる、その過程で何が起きたのかといえば、大きな結節点として考えられるのが福島核災害である。その事故の直後に、理系文系分け隔てなくある程度の素養が有れば想定できたのは、日本国土の半分が居住不可となり人口が最も集中する関東平野の4千万人を待ち受けるディアスポラであった*2

かくなる決定的な危機をまえに、知を生業とする人々の間で一瞬だけ生じた共同戦線は、瞬く間に崩壊したが、その背後にあったのもすでに胎動を始めていた攻撃的なナショナリズムであり、シュプレッヒコールは「不安を煽るな」であった*3。究極の危機的状況で不安の源泉を直視しできるかぎりの対策を力をあわせて生き抜こうとする人間たちは想定外、だったのかもしれない。代わりにトップダウンで支給される「安心」が渇望の対象となった。ここで起きたのも価値の逆転であった。不安を支給するものは悪であり、安心を供給するものが善、という価値観。事実を伝達し解説すること、嘘を喧伝し事実を暗渠沈めてしまうこと、という二つの軸が社会の中に並存し、その異なる価値の軸にあるものが互いに罵倒し議論はまさに平行線をたどった。

その末に今、がある。事実ーデマという対立軸が、不安ー安心という対立軸にジャックされ、不安を呼ぶものはデマという考え方までも生み出しつつあるのが現在である。風評被害、の「風評」がたとえばそれである。覚えている人の方がすでにマイノリティかもしれないが、かつてそれは純然たるデマを意味していた。今ではその言説が事実であっても日常業務に滞りを生じさせる情報による業務の損害は「風評被害」。つまるところ、大学や学術が近代科学のもとで追求している価値は、税金を納めているマジョリティの価値とは決定的に乖離しているのである。それはつまり、事実とフィードバックのサイクルに従って導かれる生活の安心、ではなく苦渋と隷従の生活がまっていようとも国家がトップダウンで与えてくれる虚偽虚栄の安心を選んでいる。

 

参考記事

以下、引用する。朝日新聞 2021年7月15日付

 日本学術会議の会員に推薦されながら、菅義偉首相によって任命を拒否された問題が報道されてから9カ月余り。歴史学者加藤陽子さんがインタビューに応じた。1930年代を中心にした戦前の日本近代史の研究で知られる加藤さんは、拒否した理由を説明せず、批判されても見直しに応じない現政権を、どう見ているのか。

 ――菅首相が6人の任命を拒否したと報道されたのは昨年10月でした。自身の任命が拒否されたことをどのように知ったのですか。

 「9月29日の午後5時ごろに学術会議の事務局から電話があり、任命されなかったと伝えられました。『寝耳に水』という言葉が実感として浮かびました。私のほかにも任命されなかった推薦者が誰かいる、とも言われています」

 ――詳細に覚えているのですね。日時は確かなのですか。

 「確実です。私はこの件が始まって以降、記録として残すために日記をつけていますので」
 「日記には学術会議のことだけでなく、その日の新規感染者数などコロナ禍の情報も書いています。社会の雰囲気や同時代的な偶然性も含めて記録するためです」

 ――拒否された6人の中で見ると、加藤さんはこの問題について人前であまり語っていない印象があります。会見には出ましたか。

 「出ていません。ひと様の前に顔を出して語ることには積極的ではありませんでした。研究者としての就職を控えた人たちを大学で多く指導しているので、彼らの未来に何か負の影響が及んではいけないと懸念したのが要因です」

 ――では、なぜこの段階でインタビューに応じたのでしょう。

 「政府とのやりとりが先月末で一区切りを迎えたことが一因です。私たち6人は、任命が拒否された理由や経緯がわかる文書を開示するよう政府に請求していました。たとえ真っ黒に黒塗りされていようと何かしらの情報は開示されるものと思っていたのですが、実際の政府の回答は『文書が存在するかどうかも答えない』という非常に不誠実なものでした」

 ――6月に出された不開示決定ですね。どう感じましたか。

 「納得できませんでした。回答した政府機関のうち内閣官房は、該当する文書は存在しないと通知してきました。内閣府の回答はさらにひどく、文書が存在するかどうかを明らかにしない『存否応答拒否』でした。文書が隠滅された可能性もあると思います」

 「インタビューに応じたもう一つのきっかけは、報道機関などによる調査が進んで、学術会議の自律性が前政権の時代から何年もかけて掘り崩されてきた過程が明らかにされたことです。関係者に迷惑をかけずに私が発言できる状況が整ってきたと判断しました」

 ――任命拒否が判明した直後の昨年10月、加藤さんは、菅首相の決定には法的に問題があるとするメッセージを公表していますね。

 「日本学術会議法は、会議の推薦に基づいて首相が会員を任命すると定めています。この首相の任命権については1983年に中曽根内閣が答弁しており、首相が持つのはあくまで形式的な任命権であって会議の推薦が尊重される、との法解釈が確定していました」

 「しかし今回の菅首相による拒否は、会議の推薦を首相が拒絶できるという新しい法解釈に立っています。つまり政府の解釈が変更されているのです。解釈変更が必要になった場合には政府は国会で『どういう情勢変化があったから変更が必要になったのか』を説明する義務があるはずです。けれど菅首相は説明していません」

 ――同じメッセージの中で、決定の背景を説明できる決裁文書はあるのか、とも問いましたね。文書にこだわった理由は何ですか。

 「私は日本近代史を研究する者として、行政側が作成した文書を長らく見てきました。だから、何か初めてのことをするときには文書記録を作成する傾向が官僚にはある、と知っていたのです」

 「ただ近年、官僚が官邸からの要求に押され、適切に文書を作成できない事態が生まれていると感じていました。安倍晋三政権の時代からです。集団的自衛権に関する憲法解釈を閣議決定で変えたり、検察庁幹部の定年延長に関する法解釈を政府見解を出すだけで変えたり……。法ができないと定めていることを、法を変えずに実行しようとする人々が、どういう行動様式をとるのか。それを確認したい気持ちが今回ありました」

 ――任命拒否について菅首相は十分な説明をしていない、と批判してきましたね。何をすれば「十分な説明」になるのですか。

 「日本が立憲的な法治国家である以上、行政府の行為は、国民や立法府からの批判的検討を受ける必要があります。その行政活動には法的な権限があるのか、その権限を行使することに正統性があるのか。自らが任命拒否した行為について国会でそれらを正面から答弁することが、説明です」

 「首相が『人事の問題なのでお答えを控える』と言うとき、彼は『なぜ外されたのか分かるよね?』と目配せをしているのだと思います。自民党を批判したからだろうとか、政府批判にかかわったからだろうとか。国民がそう忖度(そんたく)することを期待しているから、説明しないのでしょう。忖度を駆動させない対策が必要です」

 ――政権や指導者が国民や議会に十分な説明をしないことは、社会に何をもたらすのでしょう。

 「日本の歴史を振り返れば、政権や指導者が国民に十分な説明をしなくなりやすいのは、対外関係が緊張し安全保障問題が深刻化したときでした。しかし歴史は、そうした傾向が国民に不利益をもたらしたことも教えます」

 「戦前の日本は、満州事変(1931年)を機に国際連盟を脱退し、常任理事国であるという巨大なメリットをみすみす手放してしまいました。もし脱退の必要性を政権が国民に説明していたら、それは国益に資するのかという幅広い検討機会が生み出され、脱退しない展開もありえたはずです」

 ――ご自身を菅首相が外した理由は何だと推測していますか。

 「歴史記録を長年眺めてきた者の直感ですが、2014年ごろから安保法制に反対したり『立憲デモクラシーの会』に参加したりしたことを含めて、政府批判の訴えをしたからでしょう。新聞や雑誌にコラムを書いたり勉強会で講師をしたりといった大衆的な影響力を警戒されたのだと推測します」

 「任命拒否問題の本質は、政府が法を改正せずに、必要な説明をしないまま解釈変更を行った点にあり、それは集団的自衛権の問題や検察庁幹部の定年延長問題とも地続きであること。私が国民の前でそれを説明することができる人間であったことが、不都合だったのではないでしょうか」

 ――菅政権が任命拒否した人数は、なぜ6人だったのでしょう。謎だとされている部分です。

 「象徴的な数字として使われたのではないかと私は見ます。前回17年に105人の新会員が任命された際、当時の学術会議会長は政府側から要求されて『事前調整』に応じています。推薦者の名簿に本来の人数より6人多い111人の名前を書き、見せたのです」

 「しかし今回は山極寿一会長(当時)が事前調整に応じず、初めから105人ぴったりの推薦名簿を出しました。それに対する政権の反応が、私たち6人を外す決定です。『次回は2017年のように6人多く書いて来いよ』というシグナルなのでしょう」
(後略)

 

 

*1:直近の問題は学術会議の任命問題であったが、学術会議を廃止せよ、という主張に発展した。引用:

日本を否定することが正義であるとする戦後レジームの「遺物」は、即刻廃止すべきです。国家機関である日本学術会議は、その代表格です。

学術会議は、連合国軍総司令部GHQ)統治下の昭和24年に誕生しました。亀山直人初代会長は設立の際、GHQが「異常な関心を示した」と語っていますが、日本弱体化を目指した当時のGHQは学術会議にも憲法と同様の役割を期待したのでしょう。会議はこれに応えるように「軍事目的の科学研究は絶対に行わない」との声明を何度も出してきました。憲法も学術会議も国家・国民の足枷と化したのです。

他方、学術会議は、国家戦略として「軍民融合」を推進する中国とは研究者の交流、科学情報の共有について覚書を交わしています。会員らは、学問の自由が脅かされていると政府批判をしますが、矩のりを越えた学者の政治活動で自由な学問・研究を阻害しているのは、学術会議自体ではないでしょうか。そんな組織に毎年10億円以上の税金を注ぎ込むとは何ごとでしょう。

真の独立国家としての土台を蝕む組織は、一掃すべきです。日本を私たち国民の手に取り戻し、前向きな光を当てる第一歩が学術会議の廃止です。

*2:「最悪のシナリオ」と呼ばれていたことが当時首相であった菅直人の記録にあるこちらも。引用:

それにしても、半径二五〇キロとなると、青森県を除く東北地方のほぼすべてと、新潟県のほぼすべて、長野県の一部、そして首都圏を含む関東の大部分となり、約五千万人が居住している。つまり、五千万人の避難が必要ということになる。近藤氏の「最悪のシナリオ」では放射線の年間線量が人間が暮らせるようになるまでの避難期間は、自然減衰にのみ任せた場合で、数十年を要するとも予測された。

「五千万人の数十年にわたる避難」となると、SF小説でも小松左京氏の『日本沈没』くらいしかないであろう想定だ。過去に参考になる事例など外国にもないだろう。

この「最悪のシナリオ」は、たしかに非公式に作成されたが、政治家にも官僚にも、この想定に基づいた避難計画の立案は指示していない。どのように避難するかというシナリオまでは作っていなかった。

つまり、「五千万人の避難計画」というシナリオは、私の頭の中のみのシミュレーションだった。

私の頭の中の「避難シミュレーション」は大きく二つあった。一つは、数週間以内に五千万人を避難させるためのオペレーションだ。「避難してくれ」との指示を出すと同時に計画を提示し、これに従ってくれと言わない限り、大パニックは必至だ。

現在の日本には戒厳令(*)は存在しないが、戒厳令に近い強権を発動する以外、整然とした避難は無理であろう。

だが、そのような大規模な避難計画を準備しようとすれば、準備段階で情報が漏れるのも確実だ。メディアが発達し、マスコミだけでなくインターネットもある今日、情報管理は非常に難しい。これは隠すのが難しいという意味ではなく、パニックを引き起こさないように正確に伝えることが難しくなっているという意味である。そういう状況下、首都圏からの避難をどう進めたらいいのか。想像を絶するオペレーションだ。

鉄道と道路、空港は政府の完全管理下に置く必要があるだろう。そうしなければ計画的な移動は不可能だ。自分では動けない、入院している人や介護施設にいる高齢者にはどこへどのように移動してもらうか。妊婦や子どもたちだけでも先に疎開させたほうがいいのか。考えなければならない問題は数限りなくある。

どの段階で皇室に避難していただくかも慎重に判断しなければならない。

国民の避難と並行して、政府としては、国の機関の避難のことも考えなければならない。これは事実上の遷都となる。中央省庁、国会、最高裁の移転が必要だ。その他多くの行政機関も二五〇キロ圏内から外へ出なければならない。平時であれば、計画を作成するだけで二年、いや、もっとかかるかもしれない。それを数週間で計画から実施までやり遂げなければならない。

大震災における日本人の冷静な行動は国際的に評価されたが、数週間で五千万人の避難となれば、それこそ地獄絵だ。五千万人の人生が破壊されてしまうのだ。『日本沈没』が現実のものとなるのだ。

どうか想像して欲しい。自分が避難するよう指示された際にどうしたか。

引越しではないので、家財道具はそのままにして逃げることになる。何を持って行けるのか。家族は一緒に行動できるのか。どこへ避難するのか。西日本に親戚のある方は一時的にそこへ身を寄せられるかもしれない。しかし、どうにか避難したとして、仕事はどうする。家はどうする。子どもの学校はどうなる。

*3:引用:「そうそう、そんで日本語で情報入れようとしても無駄とわかったので、オンラインでBBC Liveつけっぱにしてたんだ。そしたらあの「爆発」の映像(日本では日テレが流したがNHKは流さなかった)。で、そのとき「メルトダウン」っていう言葉を使うと@飛んできて注意された。「不安を煽るな」と — nofrills/文法を大切にして翻訳した共訳書『アメリカ侵略全史』作品社など (@nofrills) 」2011年5月11日