日本で英語を喋りながら車に近づき、運転席に入ろうとすると自動的に体は車の左側に向かってしまう。扉をあけようとするとハンドルがないので、反対側に苦笑しながらぐるっとまわって右側のドアを開ける。日本語を喋りながらだったらこんなことはまずない。妙なものである。何回かやってしまってからは意識して間違えないようになったけれど。
わすれないうちに彼女のことをいろいろ書きとめておこう、とおもっているうちに死んだ日から半年もたってしまった。書こうと思うとはた、と止まってしまう。まったく書けない。書きたくないのではなく、彼女のことを書こうとするとその存在のリアルさに圧倒されて書けない。死が生のリアルさを際立たせてしまうのかもしれない。文字にできない。ならない。でもなぜか英語だったらできる。日本語だととても難しい。でも日本語で書きたい。彼女と日本語を喋っていたからかもしれない。そうこうするうちに忘れてしまうかもしれない。私は焦る。断片でもいいからひとつひとつ残したい。そうこうしているうちに半年がたって、日常においたてられている。息子は8ヶ月になった。むちむちしているのに終始偉そうな態度なので、無珍先生というあだなをつけた。

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ああええううああええうう
をくりかえす沼の中の仏僧たち
の舌先は、しろく、ひからびて
うたはうたを失い
もう沈むことさえもできずに
ただ くりかえし そして
くりかえし

(「祈祷」抜粋 多和田葉子)*1

*1:この詩は以前、hizzzさんに紹介してもらったのだった。いまさらながら、ありがとうございます