五・一五事件の減刑歎願運動について

svnseedsの「タイムリーにも」のブックマークコメントに少々間違いを書き、gohshiさんに指摘していただいた。罪滅ぼしに以下、わたしが思い出していた本の一部を抜粋、写経する。
以下「天皇と東大」上巻第35章、「日本中を右傾化させた五・一五事件と神兵隊事件」p763-5から抜粋。

なかんくず大きな影響を与えたのは、五・一五事件だった。それは、現役の海軍青年将校と、陸軍の青年士官候補生が集団で首相官邸を襲って、時の首相犬養毅を暗殺するという衝撃的な事件だった。牧野内大臣官邸、警察庁、政友会本部なども襲われ、爆弾を投げつけられた。事件発生当時は、このような事件を起こした青年将校たちに反感をもつものが多かったが、昭和八年五月から裁判がはじまり、参加青年たちの心情が法廷陳述を通して世に知られるようになると、それに共感する人がドっとふえた。
法廷には、減刑嘆願書が山をなし(前ページ写真参照)、それとともに、世論が変わっていった。事件発生当時は新聞報道も、政治的野心を持つ不逞の軍人たちによってなされた妄動、凶行、虐殺など、軍人を非難する論調一色だったのが、減刑運動を同情的に紹介するなど、微妙に変わっていった。
東京日日新聞に寄せられた次の投書は、そのような世論の変化を如実に示している。
「妾は日給八十銭の女工の身で御座いますが、この間中までは、犬養総理大臣を暗殺した軍人方に対して妾共は非常に反感を有つておりましたが、今回新聞やラジオのニユースで暗殺せねばならなかった事情とか、皆さんの社会に対する立派な御考、更に皇室に対するお気持ちをお伺ひしまして、私共の今迄考へて居つた事がまことに恥かしく感じられました。私共は新聞を読んだりラジオの二ユースを聞く毎に涙ぐましくなりました。殊に東北地方の凶作地への御(心)遣りなぞは、妾の如き凶作地出身の不幸な女にどんなにか嬉しく感じた事でせう。(略)国家の将来の発展のために、私共プロ階級同胞のために身命を御賭し下さいました麗しい御精神には、ほんとに泣かされるのでございました」(傍点*1立花、『検察秘録 五・一五事件 匂坂資料 角川書店』)
この投書の主は傍点部分でわかるように(プロ階級はプロレタリア階級)、かつては共産党のシンパだったのだろうが、今度はすっかり右翼テロリストのシンパになってしまったのである。
(・・・)
「公判開始以来、十一名の被告のため、約七万人からの減刑歎願書が、法廷に提出された。中には全文、血書したのや、あるいは血判したのもあった。同情観が白熱化して、新潟県から九人の青年が各自、小指を根元から切断して歎願書に添付して送ってきた。陸軍省では、その情熱に感激して、これをアルコール漬にして保存することにしたが、この小指の瓶詰が法廷に持ち出されたとき、判士も、検察官も、弁護人も、結局、陸軍五・一五事件の若き被告十一人のため、減刑歎願の熱意の表現として十本の血染めの小指が軍法会議の法廷へ(・)されたのである。これ以外、歎願書は、判決言渡期日までには十万人を突破するだろうと称せられ、官憲の陰性的弾圧あるにかかわらず、五・一五事件減刑運動は澎湃として一箇の国民運動にまで発展した」(角岡和良「非常時の非常時犯」『文藝春秋』昭和八年十月号)
ここでは、判決までに減刑嘆願署名は十万人に及ぶだろうと予測しているが、現実はそれどころではなく、百万を突破した(陸海軍軍法会議東京地裁あわせて)と伝えられている。
(・・・)
たしかにこの時代に社会の潮流は逆転したのである。左翼はみるみるうちに退潮し、左翼の闘士は、時代の先駆者から国賊に堕ち、代わって、右翼の闘士が国賊から国士になったのである。

わたしがいいたかったのは、結果としてテロを国民が容認したのだ、という点である。

天皇と東大 大日本帝国の生と死 上

天皇と東大 大日本帝国の生と死 上

*1:引用のため、イタリクスにしました。