内面化の問題

秋葉原の通り魔が残している数日前からの掲示板のログを読んだ。こちらの心の芯まで伝わってくるような寂寞とした、とつとつとした言葉の連なりに、孤独だと思っていたころの自分を思い出した。以下、抜粋する。

一人でランチ

仕事おわり
帰ろう
一人で

女の人とお話してる同僚に話しかけられたけど無視してきた
お楽しみのところを邪魔しちゃ悪いもんね

バスを待ってられないから電車で帰ろう
一人で

スポーツカーに女乗せてる奴が居た
事故ればいいのに

助手席に女乗せてる奴に税金かければ日本の財政難は解決すると思う

トラックのタイヤが外れてカップルに直撃すればいいのに

電車こない

相変わらず一人

ひとりぼっち

誰もいない

いるのかいないのか

どうでもいいのか

みんな俺を敵視してる

味方は一人もいない

この先も現れない
一生無視される
不細工だもの

俺以外にこんな奴はいない
だから誰にも理解されない

いつまでたってもひとりぼっち

電車きた
乗る
一人で

汚いものを見るような目で見るなといっているのにどいつもこいつも

一駅だけ
降りる
一人で

06/04 11:11 - 16:00
秋葉原通り魔事件掲示板書き込み6月4日

20代なんて多かれ少なかれだれだって孤独なものである。山ほどある古今東西の文学を眺めれば孤独にのたうちまわる青年がゴロゴロしている。その孤独を自動車工場の派遣社員ワンルームの一室で、じゅくじゅくと培養し、それを表現する唯一の手段として大型ナイフを積んだトラックを駆って秋葉原に向かった様子を思うと、これは彼の責任で済ませてよいのだろうか、と思う。不細工であると自分を責め、孤独は自分の責任であると責めつくして人を刺すに至るはるか前に、助けてくれ、と他の形で彼に叫ばせる義務が社会にはあったのではないか。これが社会問題でもあると思うのは、湯浅誠が告発する貧困の内面化の問題と通低している部分があるからでもある。

p65
「どんな理由があろうと、自殺はよくない」「生きていればそのうちいいことがある」と人は言う。しかし、「そのうちいいことがある」などとどうしても思えなくなったからこそ、人々は困難な自死を選択したのであり、そのことを考えなければ、たとえ何万回そのように唱えても無意味である。<…>
p132-133
どうしてもっと早く相談しなかったのか、と言うのは簡単だ。しかし、ほとんどの人が自己責任論を内面化してしまっているので、生活が厳しくても「人の世話になってはいけない。なんとか自分でがんばらなければいけない」と思い込み、相談メールになるような状態になるまでSOSを発信してこない。彼/彼女らは、よく言われるように「自助努力が足りない」のではなく、自助努力にしがみつきすぎたのだ。自助努力をしても結果が出ないことはあるのだから、過度の自助努力とそれを求める世間一般の無言の圧力がこうした結果をもたらすことは、いわば理の当然である。

湯浅誠『反貧困』より、hokusyuさんの引用から孫引き

むろん、私は7人を殺めた犯罪を正当化するつもりはない。大江健三郎の造語を用いれば、殺人者である彼の”罪の巨塊”すなわち罪体は白昼の秋葉原に転がった幾多の犠牲者である。殺人を起こしてしまった今、犯罪者となった彼にはその原因を究極まで自分の中に求め、社会が不適正であるという自己正当化に逃げることなく自らを問い続ける義務が生じた。歩行者天国にトラックで突っ込み、その捕縛される姿がケータイ電話でねずみ算式にコピーされ始めた時から彼はより深い孤独に陥ったのである。
しかし一方で同時に、社会にはそのような彼の存在が単なる被写体ではなく、その社会自身の本質的な一部であることを真摯に問い続ける義務が生じたのである。我々の”罪の巨塊”、すなわち罪体は彼という存在だ。