善男善女

”善男善女”というのが一番タチ悪い、と思っている。マイネームイズ善男善女、という人たちだ。たとえばである。初詣にいったりすると、なにやら行儀よく人々がならんで、しばし列におさまっているうちに「初詣をするわたくしたち」のような一体感が醸成される。おなじ目的に向かって行動するのであるから、これは目的を問わず醸成される集団意識である。それ自体は不快ではない。私が不快なのはもうすこし先にあるものなのである。どう説明したものか、とてもむずかしいのだが、なんとか説明してみようと思う。醸成された一体感に乗じて、互いに善男善女であることを自明化しようする、あるいは当然であるかのごとく振る舞い、「初詣をしているわたくし/あなたであるから、悪人であるはずがない。われわれは疑いようもなくすばらしいことをなしている人間である」というアイデンティティが我彼に無批判にばらまかれているのである。そこでわたしはげっそりする。
こうしたことを不快に感じるわたしがどこかおかしいのかもしれないのだが、「醸成された一体感に乗じて」の部分にわたしはなにやらヌメヌメとした気分のわるいものを感じる。一体感は個々が集団のなかに存在し、なにがしかの共同行為を行うことで個人それぞれが受け取るものである。しかしながら、そのこととそれぞれの個人がどのようにさまざまな事象について考えているかということとは独立である。「一体感に乗じる」善男善女は、こうした個々のスペクトラムに土足で踏み込んで「まさかこんなに善男善女なわたしたちが同じ価値観を共有していないなんてことはありませんよね!」と説明するわけでもなく(すなわち疑いもなく −だから善男善女なのだが −)、わたしになにかを押し付けられるのだ。これは別に初詣に限った話ではない。ドイツでもにたような状況に居合わせることがある。同じく善男善女の登場、である。最近でいえば、「理系白書ブログ」のコメント欄に、わたしが”あ、でた”とおもうような善男善女が登場した。捨て台詞が「自覚をもっていただきたい」である。自覚は一人称で使うものであって、他人に強要されるならば他覚である。また、靖国関連でも、ザ・善男善女が跋扈するのをみかけた。上に説明したようなヌメヌメした不快さ、である。日本に住んでいる、あるいは日本国籍を所有している、あるいは両親が日本人だった、などの理由で日本という共同体にかかわりがあることから人間にはニッポン属性が生じる。そこから一足飛びに一体感を自明の感情として引き合いにだす、ひいては一体感のみならず「国民としての義務」なところまで一足飛びに噴きあがる。すなわち行動・表現様式までもがいつのまにか「そうあるべき」という属性に含まれることになるのだ。属性は「である」であって「べき」ではない。属性と行動様式、この間には遠大な距離があり、リンクする以前に検証すべき点が大いにあると思うのだが、その距離をなにもないかのごとくヌメヌメと踏み越え、わかるでしょ、と説明もなく迫る連中がいる。それを目にするたびにいやな気分になる。