Re:てろてろ

昨日からの続き。事実上”一般意思”がなにかの空気のように支配する場面はいろいろあるなあ、と思う。テレビが放射し、ネットがそれを網状に組織化する。組織化された”空気”が放射源にフィードバックされ、ループする。ルソーが規定するようなコミットメントの上での一般意思ではない、鵺のごとき一般意思。この空気を空気として認めるのではなくて現状におけるそのメカニズムをできるかぎり明らかにすることが今の世界における一般意思のありかた・実情を明確にすることだろうし*1、その一般意思と国家とのかかわり、ナショナリズムの醸成・扇動との関係性、国民なき国家の出現とセキュリティーのみにおいて生じる国民の紐帯(said 白井さん)を考える上での第一歩だろう。代議制の実効性が希薄化し、それに変わる”権力へのアクセス”への希求があらたな形で再浮上している。たとえば'公開リンチ'はその一側面だ。

クリントン政権で国家安全保障問題補佐官を勤めたアンソニー・レイク氏は、テロであれ,事故であれ、確信犯罪であれ、わたくしたちはあたらしいタイプの事件に遭遇すると、往々にして既製の思考回路をもって出来事を捉えてしまいがちである。だが、21世紀のテロリズムに対しては、通常の暴力や犯罪以上に柔軟な想像力が必要だと述べたことがあります。『 6 NIGHTMARES 6つの悪夢』という本で論じられた考えで、わたくしはこの本をJMMで紹介したことがありましたな。この書物は、レイク氏が2000年(つまり9/11の1年前ですよ)に書いた警告の書であります。
(…)
公平な裁判は、ときに思わぬ不快な結果を招くこともある。証拠不十分だったり証人の証言が正確でなかったりすると、被疑者が無罪となって釈放されてしまうということもあるのであります。それは公平な裁判の負う避け難いリスクであります。立件とは検察の事実固めと弁論の力量を問うことなのだけれど(「冤罪」はべつの問題である)、だがそのリスクを負うことなく、ハナから被告を有罪と仮定して審議が進んでいくような裁判は,裁判ではない。それは裁判ではなく、リンチと言うのであります。テロリズムはその犯罪のインパクトがおおきいことと世間全体が被害者となることで、「疑わしいからすぐ罰してしまおう」となりやすい。
(…)
ギョーザ事件の容疑者が捕まって、テロリストグループの仕業という疑いがでようものなら、ひとびとは興奮し、即座に有罪を叫び、刑の執行を叫ぶのではないか。その様(さま)を想像すると、わたくしはイラクにおけるサダム・フセインと彼の閣僚たちの裁判を思い出してしまう。大衆の興奮は、往々にして事実の確認と冷静な判断にもとづいてはいないだけでなく、興奮は陶酔となって収拾がつかなくなるのであります。わたくしはその興奮が「法の支配」をなおざりにすることを危惧するのですね。杞憂だよ、日本はイラクとは違うよとおっしゃるかもしれないけれど、どこの国でも、メディアと大衆はお互いに寄りかかり合いながら共存しているのであります。
『オランダ・ハーグより』 第185回 「てろてろ」 春 具 
JMM[JapanMailMedia] No.466 Friday Edition
http://blogs.yahoo.co.jp/hori50tokyonerima/51869337.html

ちなみに「てろてろ」って、おそらく野坂昭如の名小説のことだけど知っている人どのぐらいいるんだろ。本は絶版でこれに入っているみたいだ。

野坂昭如リターンズ〈1〉真夜中のマリア・てろてろ

野坂昭如リターンズ〈1〉真夜中のマリア・てろてろ

[追記] 新潮社から単行本ででている。
http://books.bitway.ne.jp/meng/cp.php?req=126_01_01&site=nifty&bid=B0510500322&catid=0101
アマゾンにリストされないのは内容故か。わはは。

*1:”メタとベタが二律背反同居するゼロ年代の若者文化状況”"本来メタを志向していたスノッブサブカルが、わらわらとベタに流れ込んでゆく"c.f. http://d.hatena.ne.jp/cliche/20080217/p1的な態度が若者のみならず拡散している