類型化

見出しの大きさは新聞社では整理部が決めることになっている(らしい)。ニュースの重要度にしたがって見出しが「トップ」「四段見出し」等々決まるわけである。新聞の読者はなんとなくそれに誘導されてニュースの重要度を判断する。
一方でウェブのニュースの見出しの大きさは時系列に登場し、紙面ほどの誘導効果がない*1。今ちらっとアサヒ・コムをみたら、「羽田ダウン、電源監視に落ち度」が大文字トップになっている。その下のニュースは、フォントが小さくなり「北朝鮮次官、平和目的の核利用を主張 6者協議」で、そのままのフォントで箇条書きで見出しが続いている。ニュースの重要性はフォントの大きさだけからではうかがい知ることができない。情報という面からみれば、ニュースの重要性の判断がより読者の自由になった、ともいえるのだが、「女性の美めぐり国民投票 メーカーがキャンペーン広告」という見出しと「ゴミ捨て場から22遺体見つかる バグダッド」てな見出しが同じフォントサイズで並置されているのは、どうも気持ちが悪い。ずっとなにか妙な気分だなあ、と思っていたのだが、やっとそのことに気が付いた。ましてや大フォントの「電源監視に落ち度」なんて重箱の隅である。それで飛行機が落ちたわけではないのだから。
情報はフラットに供給され、そこにいかなる意味を見出すかは読者の自由である、というのはもっともなのである。でもこれは、商品の情報が氾濫している今の世の中の状況とよく似ている。情報を閲覧して価値を私が判断しなくてはいけない。なんて面倒なんだ。ましてや価値を判断する能力がなければ、情報は非現実的な記号でしかなくなってしまう・・・ ということが実際に起きているのではないだろうか。

追記

新聞見出しの作用は以下の‘類型化‘作用の一部である。

新聞はその記事の威力によって世界の現象自身を類型化すると同時に、
その類型の幻像を天下に撒き広げ、
あたかも世界中がその類型で満ち満ちているかのごとき錯覚を起こさせ、
そうすることによって、さらにその類型の伝搬をますます助長する
寺田寅彦

http://www.moriyama.com/diary/2005/diary.htm#diary.05.08.01
via id:hotsumaさんブックマーク

逆に類型化されていない世界に対峙する、というのが科学である。自らの中のフィルタリング装置を鍛錬しないと科学にならない。自然は豊かだからその豊かさに目を奪われているわけにはいかず、だからこそ限定された問いを立てる必要がある。情報の取捨選択、価値判断が自由であるということと、情報の絶対量の掛け算に、ものの見方の現実性が関わるのではないか。分かりにくい言い方で申し訳ない。まだはっきりしない。

*1:見出しの大きさもウェブ上に復元できる有料サービスもあるらしいけど、金払ってまではしないよなあ。