重層性
仲俣さんのこのテキストに関して、ロスジェネ(勝手に省略)の定義に関する妥当性の検討*1は、いかにもウェブ的というか情報蓄積の良心というかなんというか、日本文化の精密で良質な部分を体現していると思う。
でもそれだけでおわっちゃいかんと私は思ったりする。なぜならば、仲俣さんの記事を長期にわたって読んでいる人間にはその流れの中で感読できるけれど、ブクマ的な断片情報のピックアップで読んでいるだけではわからない内容が含まれているからなのだ。*2
というか、このトピックは重要だ。三年前のことを思い出したのだけれど、今思い出せば東某がそのころにさかんに立てていた世代論の枠組みに対して私は、え?と思っていたのであるが(そう、あのリリカさんも世代なんていわれたら経験のない私はどうしたら議論に参加できるのかと真っ向から異議をとなえていた)、たった3年前ではあるが当時も仲俣さんは以下のような最新のエントリーの結論にあるような実にまっとうな批判を述べていたと記憶している。
またしても「圧殺」されるのは、大雑把な「世代論」などでは捉えることのできない「個」という考え方であり、世代を超えた個人同士の協業だろう。
世代論はいつでも個人という考え方を圧殺する
まさにこの点において、我々はどこか惑わされてしまっているのであり、問題の本質に対するアプローチの大いなる阻害になっているのだと思う。簡単な例を言えば大店規正法の緩和でワリを食っているのは25歳から35歳の人間だけではない。あるいは非モテはイケメンであるか以前に非モテたるゆえんの確固たる社会的背景があることも忘れてはいけないのである。*3
もちろん、こうした本質に対するアプローチに際して仲俣さんが”x年代”という時代区分カテゴリーを持ち出してしまう限界もある。でもそれは不可避だ。なによりも80年代や90年代を経験したのはその時代を生きた人間すべてなのである。別に団塊ジュニア世代に限った話ではない。いわばそれは時代の思潮、古風なことばで言えばツァイトガイストなのである。そしてツァイトガイストは通り過ぎるようでありながら、我々に重層的な澱を残す。この重要なポイントを看過してはことをあやまる。
いま何よりすべきなのは、「失われた十年」などという軽薄なマスコミ用語によって巧妙に隠蔽されている、(この世代だけでなく私たちすべてにとっての)「失われた」ものの実質を問うことのはずで、私はその第一は「景気」や「豊かさ」ではなく、なによりもまず「知性」であり、それを支える「勇気」だと思う。その欠落がたんなる「景気回復」や「バブルの再来」によって埋め合わされてしまう程度のものなのか、それよりずっと深いところでの「欠落」なのかを見極めないかぎり、これまでも何度も無益に繰り返されてきた、若い世代に対する無責任なレッテル貼りを繰り返すだけだろう。
世代論はいつでも個人という考え方を圧殺する
簡単に言えば、ロスジェネは今を生きる人間全てであって団塊ジュニアだけではないのである。
しかしながら、世代論に応答して次のような意見もみられる部分もまた忘れてはいけない。たとえばinf.さんの意見は傾聴すべき内容だ。いつまでもロストでいい、その権利はあなたたちにはあるのだから、という仲俣さんに対して、いや、必要なのはあきらめの道だ、という。そしてさらに
しかし同時に、まわりを見回してみるとこのような諦念というかリスクヘッジは既に「道に迷った世代」に十全過ぎるくらいに内面化されているように見受けられます*3。ですからパフォーマティブであるのなら、「あきらめろ」というのとは別の訴えかけが有効なのではないかとも思います。
しかし不安を組み込んだ安定志向であり高望みしない人たちにどのような言説が有効なのかと考えると、言説では救い得ないのではないでしょうか*4。すなわち実際的で制度的な解決以外なんら説得力を持ち得ないのではないかということです。現に私自身(うんざりするほどよくあることですが)そうした類の言説を聞かされたとき、表では殊勝な顔をして異論も唱えませんが、内心「言ったことよりもやったことで判断すべきだな」と思って聞き流していたりします。
「道に迷った世代」から
実はこの部分を読んだ瞬間に私は「丸山真男をひっぱたきたい」、そしてそのために「戦争も辞さぬ」というまさにパフォーマティブともいえる(パフォーマティブであるか否かのそれぞれの判断は筆者である赤木智弘氏のサイトに譲るが)を思い出した。「平和が続けばこのような不平等が一生続く」のである。このテーゼの妥当性はやたらと議論の余地があると思うのだが、たとえば上のinf.さんに対する回答としては実に困ったものだ、と思う。簡単に説明すると、このいきなりリセットボタンを押そうといういかにも賛同しやすい発想に私が重ねてしまうのは「硫黄島からの手紙」の一シーンである。進退窮まった洞窟の中で玉砕かくなる上はと手榴弾で次々と自爆する日本兵たち。それを促す下士官。死の美学というよりも、ヤケクソである。なぜかこのヤケクソ戦法は日本の文化に親和性が高いのでありまたそのことは”迷い”に明確な回答を与える。でも最上の解決策ではないことはあまりに明らかだ。戦争をするならば敵を明確にすることが基本である。世代の対立を問う前に、それが産業革命以来どこでも繰り返されてきた労働問題に過ぎないということを冷静に見てとるべきだ、と私は思う。