情報提示について

愛蔵太さんのところから。

元エントリーのテキストを消さないで「追記」する、というのは、元エントリーのテキストを消して「なかったこと」にするより、ちょっと見にはカッコワルイんですが、自分のテキストに関する誠実さを示す、という点において、中・長期的にはブログの読み手の信頼を回復するんじゃないかと思います。
 あと、どうも、新聞やテレビといった二次情報に基づいて、「何かを言う」という、自分の意見・感想をメインテキストにした「コメンテイター」になりたがるブロガーが多すぎるように見えるのが、ぼくの気になるところです。
 本とか映画の感想でもそうですが、「こんな風に感じた」という感想よりも、「こんな本・映画があった」という部分での情報提供のほうが、ぼく自身は役に立つ場合が多いんですが、みんなはどうなんでしょうか。
id:lovelovedog:20070525:meirei

消さずに追記、ってのは私も賛成。・・・といいつつ誤字脱字を直す面倒を回避する言訳にもなるのだった。あと、記事には大まかに情報提供記事と雑感記事、という分類について。ネット上に情報を加えていく・精度を上げるという点で前者に意味があるのは明らか。
一方で後者だが、私は雑感(ないしは論説)記事があるのもいいなあ、と思う。いろいろな考え方を知るのは、自分の中にツールを増やすという点で役に立つ。問題はいくつかあるのだが、雑感系の記事が大くなりすぎると、ナマの情報が見えにくくなること。具体的には検索したら雑感ないしは主張ばっかり、といういわばレーダー攪乱のチャフですな。技術的にはナマのソース情報と雑感をある程度ふり分けて検索できるようなシステムがあればよいのだけれど*1
さらに雑感系記事が問題になるのは、雑感とナマ情報が入り混じった、どこに真実があるのかわからないような情報が猛烈な勢いで増殖することがよくあること。たとえば米議会慰安婦問題決議案に関すしても、今年の決議案をそもそも読んで批判しているのかね、と思うような意見がメジャーであるために、決議案に書かれていないような内容に激昂している滑稽なブログ記事をよくみかける(昨年の決議案と混同している→ id:kmiura:20070516#p2)。この神話発生過程をざっと眺めると、昨年の決議案をきちっと西暦や日付を書かずにどこぞの誰かが批判して記事を書き、その断片がどこかで引用され、さらにその引用記事を元に目下のどこかのブロガーがぷりぷり怒る、というなんともエネルギー的に無駄なことがまかり通っているわけですな。無駄なだけならいいけれど、それが政治的な圧力になったりするのであればサイテーである。
情報提供系と雑感系、ということでおおまかに分ければ、新聞やテレビといったハードマスメディアは情報提供系として扱われることが多い。その内容に対して多かれ少なかれ信頼があるからそれを中心にコメントをつける、批評する、ないしは糾弾、さらには激昂するということになる。信頼が深いほど裏切られたときの憎悪はでかい、ということなのだ(もうすこしねじれて、信頼してはいけない、という啓蒙のための憎悪という姿勢もあるが)。
ネット上ではこうした昔ながらの信頼⇔糾弾という振れは、信頼の根拠が疑われるとともにその度合いは薄まっているように思う。新聞記事は情報提供ではなくいわばプロのブロガーが書いている(すなわち情報提供もあれば雑感もある)というように考えれば、「嘘をついたな」と指差して激昂するよりも、批判と訂正のサイクルが普通に生まれるようになるのだろう。かくして報道業界下克上が展開するわけだ。今回のコモリ氏の件は、そうしたメディアのあり方の変化を垣間見させてくれたとうに思う。逆に新聞社はこうした位置づけを明確にしていかなければ、信頼もなければインターアクションもない、というガラクタ扱いになることはまぬがれない。英紙ガーディアンとかはこのあたり鋭い。記者ブログを積極的に前面にだしている。

*1:実はこれは”イデオロギーとはなにか”という複雑な問題ではある。