変わるには変わらないなにかが必要である。

悪とはなにか、というテーマでスピノザと誰だったかがしている往復書簡について、ドゥールーズが「スピノザ」の中で長い引用を繰り返しながら触れている。

スピノザ (平凡社ライブラリー)

スピノザ (平凡社ライブラリー)

おもしろいな、と思ったのは、スピノザがすでに昨今生物学の世界で使われるようなシステム論の考え方を述べていることだった。簡単にいうと構成要素自体は変化せずに構成要素の関係性だけが変わる、という考え方である。階層の重層性という視点がない、という点はあるが、一方でシステムの側から構成要素を眺める視線にどこか私にとって新しいものを感じた。単に神の視点ってことでしょ、ともいえるだが、なんかそれだけじゃない。なんなんだろう。少々顕微鏡的な考察を進めたいな、と思っている。
話はちょっと変わるが、今野敏さんによる「義珍の拳」という、今年出版された近代空手の開祖船越義珍の伝記をこのところ読了した。空手の大衆化について型の変遷という面でも非常に詳しく書きこまれているので、実におもしろい。
義珍の拳

義珍の拳

この空手の型の変遷についても「構成要素の関係性の変化」を私に思い起こさせた。近代空手はそれ以前の古流の型を踏襲はしているが、トレーニング方法もスタイルも指導方法の変化で大きく変更されている。この変化がおきたのは1940年代から50年代にかけてなのだが、さらに私が思うのは大衆化が始まって以来この5,60年の間にも空手の型が少しずつ変わってきた、という点である。踏み込みの深さや速度が空手の世界化に伴って改変されていっている。構成要素はかわらないが、関係性が変わる、ということでは良い例になるかもしれない。1980年と2000年の世界選手権の型を映像で比較すると、たった20年の間にこんなに変わるのか、というぐらい型が変化している。だったらなんのための型なのか、ということになるのだが、型の誤差は人間の個性の差とも似ていて、構造が違えば同じ機能を果たすにも軌跡は変更せざるを得ない。日本における大衆化だけでなく世界化した空手の型は、たとえば欧米の人間の体系と要素のバランスによって、別の方向に収束していったのではないか、と考えることができる。そしてこの変化はオリジナルの発祥点日本にもフィードバックされているのだ。
ダイナミクス’が構造化し、一方で構造に次のダイナミクス’’が規定される。これが縦に重層したときにシュステムが現れる。そんな感じだろうか。