”話が通じない”こと

片方から片方を眺めたときにある解釈を”曲解”だの”誤読”、より端的には”アホ”と判断することがある。たとえば最近目にしたのは某産経新聞記者のコメント欄の炎上ぶりとか。まったくかみ合わない。これを高みから眺めて「すべては相対的な判断でしかない」とほぼ隠居というか仙人な態度もこれまたよくみかける話。一方で、この奈落のようなかみ合わなさ、ギャップを認知という状態*1をもちこんで考えてみるといいんじゃないかという話をApemanさんがずいぶん前に書いていて、おもしろいな、と思った(synonymousさん経由)。ギャップを架橋する対話工学的な手段がデザインできるかもしれないし。
レイコフ、『比喩によるモラルと政治』のためのイントロダクション
認知科学の倫理的含意――概説とケーススタディ
でもこうしたメチエとはまた別の話になるが、認知の形成という器質的な過程が不可逆だったら、認知の差であると明らかにしたところでどうなるのだろう、というような思いもまたある。フランス人の友達と話していて、彼の彼女がサルコジに投票したこと、その前に何度も、いかにそれがばかげたことであるかを説明したけれども結局翻意を成功させることはできなかったということ、なぜ説得が不可能であるかというと「親がウヨだと子もウヨ、手の施しようがない」という彼の結論だった(レイコフの家族の暗喩ではなくて、まさに家族)。私はそうは思わないんだけど、もし”認知”なんだったらなんかまあ、たいへんだな、と思ってしまう。下手な空手の型を覚えてしまうと、矯正するのはあたらしく覚えるのより難しい、というのと同様に、価値判断を”認知(である)”と解釈しはじめるとその対偶に洗脳という思想が出てきたりする。

*1:経験の実体化・履歴(ログ)化した結果の機能が認知である、と私は考えるので状態、とする。あるいは認知というのは差分→積分ということをあえて計算した結果なんじゃないかと私は考えている。走性とかがどうもそうだから。