2012年年末・日本

年末に3週間ほど日本に帰国していた。なんだかんだいってクリスマス直前までデニーズに通って仕事をし、明けて3日にはこちらに戻ってくるという何しに行ったんだか、という滞在ではあったが、いちばんの目的であった無珍先生を日本の幼稚園に通わせる、というプランを達成することができた。

デニーズの最近のデザートを全て制覇したのも特筆に値する。店内で無線LANを無料で使えるというのも、公衆ネット環境が時代遅れな日本におけるゆっくりとした進歩を感じさせてくれた。席に座って周りを眺めると、ラップトップで仕事をしている人も結構いて、一度は大学院生っぽい男がRでなにやら計算して四苦八苦している様子で、おお、同志よ、ということでニヤニヤしてしまった。一方でファミリーレストランに行こうとしたら、以前は犬も歩けばファミレスにあたる、という感じで探す必要もなかったのにずいぶんと数が減ってしまった。高校時代ファミレスで放課後を過ごすことが思い出の一部になっている私にとってはまさに隔世の感。急用があるとファミレスに家から電話がかかってアナウンスで呼び出されたりしていたものである。

義理の妹が無珍先生を連れて11月下旬に日本に飛び、ドイツに残った私は5年前のようなひとりぐらしの二週間の生活となった。無珍先生がやってきて以来、はじめてのことである。とはいえ残念なことに明け方まで仕事に没頭するだけで昔のようにバーにでかけてどんちゃんさわぎ、などすることもなく(かくなる楽しみに期待するところがなんとはなしにあったのだが)、集中するチャンス、とばかりに必死で仕事を終えようとしてしまう自分に一抹の寂しさを感じたのだった。時間乞食。あさましい。

成田に到着した最初に無珍先生が発した質問は「なんでみんな日本語をしゃべっているの」だったそうである。後にドイツの幼稚園に戻ってから知り合いのフィンランド人のお母さんにその話をしたら、彼女の子供もフィンランドに行って「なんでみんなフィンランド語なのか」ときいたそうである。

「日本の幼稚園なんか行かない」と日本に飛ぶ前にさんざん言っていた無珍先生であるが、いざいってみたら一時入園のための面談で紹介された若くてかわいい幼稚園の担任の先生が一目で気にいったらしく、翌日の登園初日には無珍先生を幼稚園に置いてくるのにどれだけ苦労するかと想像し覚悟していた義理の妹だが、幼稚園に着くや否や担任の先生のところにかけよって抱きつき、だっこしてもらってむきなおり、バイバイと義理の妹にあっさりと手をふるので、逆に義理の妹のほうが少々ショックだったようである。まあ、なんつーか、男の子は3歳児でもオトコである。私もはじめてのプロポーズは幼稚園の担任の先生であった。かくして無珍先生は制服を着て毎日元気に幼稚園に通ったのだった(半ズボンは寒いのでどうしてもいやだ、とのことでズボンを履いていた。特例として許された)。

日本の幼稚園で少々驚いたのは母親たちの年齢である。幼稚園では父母参加のクリスマス会が企画されていたので私も参加することになった。男親は一人もいないであろう、なおかつ私より一回り以上若いお母さんたちばかりでさぞかし浮いた存在になるだろう、と予想していた。いざ行ってみると男親が私以外一人もいないという点は正しかったが、母親たちの年齢が結構高く、ジェネレーションという意味では私は浮くというほどでもないなあ、と感じた。幼稚園という場所に特有なあの幼稚園日本語も跋扈はしていたが、絶句するほどではなく私は会話を普通に成立させることに成功した。もちろん私がそう思っていただけで、母親たちは「すげーおっさん」と思っていたかもしれない。日本における出産の高齢化は人口統計などのグラフではよく見かけるが、実感したのはこれが初めてである。まあでも、よく考えたらドイツの方の幼稚園もそうだもんなあ。

日本の幼稚園に通わせてみる、というのはずいぶん前から実家の母や義理の妹が推奨していたことであった。日本語の発達のためにはそれがかかせない、というのが理由である。この点私も賛成だったのだが、私が気になっていたのは日本の食品に混入している放射性物質である。2012年の春に汚染濃度の基準値が改定されてずいぶんと低くなったことはポジティブな変化であったが、それでも不安は不安である。さらに生協などが公示する測定値などをいろいろ眺めたりして、まあ、気をつければ一ヶ月ぐらいだったら大丈夫だろう、と判断したり、母が食品汚染に関してやたらと詳しくなっておりこれが安全あれが危険、例えば鯵は未だかつてセシウムがでていない、等々とアドバイスできるようになっていたこと、義理の妹が野菜などを安心出来る販売元から購入する手はずを整えたりしたことから、決行の運びとなった。家での料理もすべてミネラルウォーターである。

スーパーで舞茸などを眺めていたら、URLとロット番号が書いてあり、ネットにアクセスすれば測定値を調べることができる、と書いてある。すげー、と思って購入し、家に帰ってしらべてみたら確かにそのロットの測定結果を知ることが可能である。あるべきシステムである。

とはいえ、なのであるが、いざ日本に無珍先生と一緒にいると、あそこのラーメンを食わせたい、あのホルモン屋に連れていこう、と結果からいえば未知のリスクに触れる結果となった。一ヶ月という時限であるからまあいいか、という甘い判断を下してしまうのだが、ずっと住んで低強度汚染の状況に子供のリスクを計る親たちのストレスがいかほどのものかうかがい知ることができた。住んでいるとなればすべてが継続的な積算値として計上されるわけであり、これは一ヶ月の実感からはどうにも敷衍できぬ、というか、最初は心に引っかかっても気にかけることをそもそもやめてしまう人間が多くても不思議ではない、と思う。日常はかくまで圧倒的。考えることをやめる、という点においておそらく測定値の多少はほとんど関係がないだろう。単に考えることを諦める、という態度に帰結するように思える。いってみれば、通奏低音のように背景に存在するリスクはもはやリスクとはいえない。選択が不可能な要素は私の言語ではリスクとはいわない。あまねく広がり不可視なホットスポットを形成する放射線核種という公害は単なる不条理なのであり、それは沈黙の怒りや暗渠の不安として日常に回収され抑圧されるのだろう。

ドイツに戻って出勤し、明けましておめでとう、日本に行っていた、などと挨拶していたら、なんと初日の半分の時間はさまざまな人間に日本の状況に関して質問され、答えることになった。三重メルトダウンという史上最悪の原発事故をおこしたのになんで原発推進の立場が圧勝し政権をとることになったのか、という質問である。

圧勝は小選挙区制というシステム上の特性が大きな原因であると思われるが、勝ったこと自体はよくわからない、結果からいえば即効性の高い景気の浮上をとるか、エネルギー政策の根本的な転換をとるか、という選択肢において日本人は前者をとったのであり、長期的な社会倫理という視点は捨て去られた、と私は答えた。なぜ?なんでなんだ?と彼らはさらに聴くのだが、私にも説明できない。かれらがそのようにこだわるのは、リスク社会、とウルリッヒ・ベックが呼んだように、原発事故が地球レベルの問題だからである。汚染は確実に全世界に散らばる。物理的にその害を個々の肉体で受けるのも全世界の人々だ。そのような視点からすれば、日本は地球レベルでの人間社会に対して反省のない反社会的、非倫理的な決断をした(もちろん核実験など他の国の問題もあるが)、と捉える人間がいたとしても不思議ではない。もちろん、もはや日本の多くの人間はそれに対して「威風堂々」だの、「決然と」だのといった威勢のいい修飾語を煌めかせながら国益優先を唱えることだろう。人はいずれ死ぬ、馬鹿げた心配だ、と冷笑する「科学的」な日本の人間もいるだろう。それに与せぬ私が「なぜだ」と聞かれている。

この気分、私が思い出すのはアメリカの中学校での経験だ。歴史の授業で真珠湾攻撃のことを学んだとき、あの授業のあとはなにやら級友の質問やいじめっこの難癖、針の筵のようだった。同じではない。しかしどこか同じである。