表象と代議制

無珍先生は10までは数えられる。なおかつ58だけはゴジュウハチと知っている。いつも駐車する場所が58番だからである。で、隣に59という数字が壁にかかれていたので無珍先生に「あれいくつ?」と聞いたら、ちゃんとゴジュウキュウ、と答えた。「無珍先生は天才だ!」と誉めたら「無珍は天才じゃないよ、無珍は無珍だよ」不満そうな顔で反論した。なにかそれに類する話。

2012年6月29日金曜日夕方に日本の首相官邸前で数万人規模の大飯原発再稼働反対デモが行われた*1。再稼働阻止という目標は達成されなかった。

前回述べたようにデモに参加することの第一の意味は個人的なものであるからして、かくなる人数の人間がおそらく人生初となる社会体験を行ったというのは、まあ、なんかそれだけで凄いことだ。加えて、表象と代表制という点において重大な意味がある。表象と代議制というと飛躍しているように思われるかも知れないが、英単語で考えると分かりやすい。表象はrepresentationである。代議士はrepresentative。ワタクシという一人の人間を表現representする手段はさまざま可能である。絵を描く、詩を読む、競技に参加する、楽器を奏でる、測定する、演ずる、踊る、睨む、叫ぶ、泣く、喋る、佇む、座る。これらのモロモロは表象であるが、代議制における代議士もまた、ワタクシの表象である。それはワタクシを表現する多様な手段の一形態に過ぎない。

先週述べたような書式システムの専制は、個人の表現手段の一つである代議制を弱体化させている。かくなる状況下にあるときに個人を近代社会という文脈で表象させる古典的な政治的手段がデモなのである。代議制の代わりに官邸前に立った、という表象。弱体化した代議制という表象に我慢できなくなり、官邸前に出現するという表象行為を行い、それが群衆という形に可視化されたことは、個人の表象の豊かさと創造性を圧倒的に示した・自覚したという点においてなによりも高く評価すべきなのである。これはヘレン・ケラーがはじめて水に触って「水!」とサリバン先生の掌中に何度も文字を書くことによって表象を発見した、という故事に呼応している。水はただの水である。が、水という表象は個人において常に発見される対象である。

こうした個人から社会へ、という立場で世の中をまず眺める私からすると、「官邸に突入すべきであった」「警察に迎合的であった」「主催者が自主解散した」といった、といった批判は的はずれである。まあ、私のアンテナが感応する点が「おお、ヘレン・ケラーにサリバン先生!」と上のようにズレているだけからかもしれんが、日本でもドイツでも警察に面と向かって殴られて呆然とした経験から鑑みるに、プロフェッショナルな国家暴力の実務レベルでの冷酷さに対していかにもナイーブだなあ、と思ったりする。できることならそれは避けるべきことなのだ。とくにデモを表象と捉える立場からすればわざわざ殴られるようなことはしないのが正しい。それを敗北と捉えるマッチョな向きもあるかもしれないが、60年代以降の学生運動にこりてセンチメートル単位で道路の幅を計測して群衆管理をシミュレーションしてしている警察を前に「とりあえず突入」はひとまず愚策であろう。

主催者が解散を呼びかけたことも問題ではない。なぜならば、やってきた人たちは動員された人間ではない。代議に失望し直議のために自分でやってきた人たちだからである。呼びかけに応じた、という事実は単に呼びかけ人の判断が受け入れられたということを示す以外のなにものでもない。あるいは「シングルイシュー」呉越同舟の問題。スローガンは確かに「再稼働反対」に集約される。が、実相においてひとりひとりが表現していることを眺めれば、シングルイシューという言葉では捉えることが不可能な多様な個人の表象が析出している。私はガーディアンの写真集を見て、この思いを深くした。かくなる実態を眺めれば「シングルイシュー」呉越同舟批判は、これまた的はずれである。イシューの実態は個人レベルまで分裂している。代表制への異議申立て、個人が国家に直接対峙する中抜き否定の表象、4万人ならば4万イシューズ、あるいはnイシューズという解釈に回収するほうが、より正しいのではないかと私は考える。集団がその個々の意見のあり方において無限に分裂していることで連続体を構成している、とでもいおうか。

代議制とデモが表象という行為において一元化されるということがより自明のものとなるには、やはり多くの老若男女がデモに参加すること、それが単に群衆としてなんども出現するということがキーになるだろう。書式システムの自壊を促すには代議制にダメだしをする個人の直議が街路上の占有体積として暴力的であるほどに多数であることを繰り返し示すべきなのだ。最近私は自分のパソコンのハードディスクをクラッシュさせた。諸々の書類はクラウドのどこかにあるので実害はなんだったのだろう、と逆に失ったものはなんであったのか思いあぐねるというなにをしているのかよくわからんことになった。官邸もしかり。官邸を壊して暴れたところでなにかがかわるわけではない。平和なデモの参加者にこんなことをいうと、「暴力ではない!」と怒られそうだが、群衆は存在自体が暴力的なのであり、国家暴力とバランスをとりうる力である。代議制とデモの一元化的理解はこのバランス下において自然なものとなる。

蛇足になるが私はどちらかというと代議士である田中康夫河野太郎がその代議士という表象を超越する場においてウロウロしていたことのほうがなんかなあ、という気分になった。ネットに挙げられるニュースで眺めただけなので他にも代議士はいたのかもしれない。なんかなあ、という気分になったのは、ヘレン・ケラーとサリバン先生の水の発見シーンの横におっさんがゴソゴソとあらわれて「レッドブルもありまっせー」とドヤ顔でのべているような気がしたから。もちろんこれは彼らの政治活動の内容に対する批判ではない。彼らはがんばっている。「私も一人の個人です」というならばまあそうだろうけどデリカシーの問題。

*1:デモ参加者数の推定においてかなり自信があるという往年の闘士にして「科学の子」矢作俊彦氏の推定数は4万人。私にはわからん。