10年前

兵庫南部地震、いわゆる阪神大震災。怪我こそしなかったが私は被災地に指定された街に住んでいた。定義上は被災者かもしれない。少なくともガス水道代は2ヶ月無料だった。10周年ということで少し思い出。

地震が発生したときに私は大学のソファで寝転がっていた。修士論文の提出直前で最後のデータ取りに奔走していたころで、8時間シフト、3交代で顕微鏡を使いまわしていた。私の番がおわり朝の5時半ごろに交代した直後だった。顕微鏡は3階にあり、2階にある資料室のソファで爆睡している同僚を叩き起こし、私が同じ場所に寝転がり、さあ寝よう、としてたときだった。
遠くから凄まじい勢いで地鳴りが近づいてきた。地震か、と思うまもなく真っ暗な資料室の窓が雷鳴のように青白くフラッシュし、ブラインドの陰が黒々と浮かび上がった。高周波の振動が指数関数的にあっというまに強度を増し、私はあわてて飛び起きようとした。その瞬間に本震が訪れ、ソファに並行しておいてあった過去3ヶ月の最新雑誌を収めたスチール製の棚からネイチャーだのサイエンスだの、といった雑誌が私に降り注いだ。周りでさまざまなものが落下する音が続き、私は立つこともできず、揺れが収まるまでソファで頭を抱え込んで雑誌に埋もれて丸くなっていた。揺れがおさまると廊下の方で同僚がなにやら叫んでいるので、走っていってみると、階段の踊り場で仁王立ちになった(足がすくんでいたらしいが、そうはみえなかった)同僚が「なんじゃこりゃー」としきりに叫んでいる。地震だ、かなりでかい、というと、関西育ちで地震慣れしていない彼は、ほんま空襲かと思った、としきりにつぶやいていた。
研究室は大丈夫か、と我々二人は3階に急いだ。真っ暗な中、あちらこちらの-80度のフリーザーやその他の機器が停電でピーッ、ピーッと警告音を鳴らしていた。普段廃熱モーターやらなんやらで常に雑音が通奏しているのが静まり返っているだけでも不気味なのに、そこに甲高い警告音だけが響いているのは実に異様だった。研究室の一番速いコンピューターを使っていた女の同僚がその机の下に潜ってでてこない。ふたりで口々にもう大丈夫だから出てきなよ、と何度もいうと、本当に大丈夫なの、と極めて疑り深い様子でやっと這い出てきた。
真っ暗な中、普段暗室などで使っている懐中電灯を探し出し、研究室の試薬だなをチェックする。幸いなことに被害は希少で床に散乱しているのはほとんどが実験ベンチに置いてあったエッペンドルフやピペットマン、資料や筆記用具の類だった。一番心配していたのはマックのコンピューターだった。データが全て入っているのだが、ちいさなキャスターの上に乗っていたので確実に落下している、と私は観念していた。だが、キャスターの位置こそ大幅に移動していたが、揺れをキャスターの動きで相殺したらしく、マックは奇跡のようにキャスターに鎮座していた。
そうこうしているうちに夜が明け始めた。窓から外を見ると、斜め前の建物から黒い煙がモクモクと上がっている。こりゃ大変だ、火を消しに行かなきゃ、とわたしがいうと、同僚は妙に冷静に、それよりもこの建物の火の元をまず確認しなければ、と、もっともなことをいうので、二人で手分けして走り回って火が出てないことを確認し、その後に私と同僚はそれぞれ消火器を手にして外に飛び出した。コンクリートの道路には大きく亀裂が入り、あちらこちら陥没していた。煙が出ていたのは化学の研究室がある付近だった。私たちが到着したときには、やはり同じように泊り込みの院生がいたのだろう、すでに消火されていた。試薬が割れて発火したのだという。
それぞれ消火器を手にぶら下げて、我々は自分の研究室に戻った。当時一番高価だった顕微鏡には水冷式の冷却CCDカメラが垂直に装着されており、いかにも床に落下しそうな、もっとも心配した機器の一つだったのだが、バカでかいカメラヘッドと冷却水を循環させるためのホースを固定させるため、壁にアングルで固定していたのが幸いし、無傷だった。実験が続行できる、と私は胸をなでおろした。資料室に戻ると、私が寝ていたソファのすぐ横に大きなスピーカーが転がっていた。これが頭に落ちてたらエライことになっていた、とこれまた胸をなでおろした。
午前10時ごろには私は検鏡を再開して、データ取りを続行していた。その間にも神戸の悲惨な状況が少しずつ耳に入り始めた。私の住んでいる街でも、そこそこで家が倒壊している、といった見聞を間接的に聞いた。私は自分の下宿のアパートは崩壊しただろう、と思っていた。なにしろボロボロの家賃月2万円、廊下を少し急げばアパート全体が揺れ、一番遠い部屋の男女の喘ぎ声が筒抜けで、モルタルのへなへなした壁は酔っ払って叩くと穴が開いてしまうようなアパートだった。面倒くさいので帰るのはよそう、と結局地震の二日後まで下宿に戻らず大学で研究を続けた。
二日後の夕方、アパートに帰ってみると意外なことに無傷だった。細い道路を挟んだ反対側の立派な古い木造住宅は、瓦が半分落ちたり壁の損壊で青いビニールシートがほぼ半分を覆っていた。より老朽化していると思われる私のアパートはどうしたわけだか何事もなかったかのようだった。部屋に入ってみると本棚やステレオが倒れてめちゃくちゃになっていたが、普段から極端に乱雑で、酔っ払いの友人が暴れて壁に穴を空けたりするような生活を普段していたのであまり代わり映えはしなかった。ただ、スチールの本棚が異様な形にねじれていたのには少々ぞっとした。私のアパートは4畳半風呂なし共同便所の貧乏アパートだった。柱が林立しており、見た目よりも頑丈なのではないか、と思い当たった。地震が起きたら便所に飛び込め、という理屈と同じことである。
久しぶりに風呂に入ろうと共同便所の小さな窓から隣の風呂屋の方を覗いてみると、入浴を希望する被災者で長蛇の列になっていた。遅くに入浴することにして買い物に出てみると商店街がこれまた買い出しの行列で大変なことになっていた。被災地近傍の機能している街ということで、機能していない街から押しかけてきているのだ。買占め、とでもいうのか、極めて品薄で八百屋はほぼ空っぽになっていた。
馴染みのお好み焼き屋にでかけるたびにテレビを長時間眺めた。ほんのすぐそこで起こっていることがテレビに映っている。長田が燃えている。大学の建つ丘の上から神戸の空を眺め、あの下でたくさんの人が生き埋めになっているんだな、と何度も思った。魂がその空にいくつもいくつもゆらゆらと浮いているような気がした。ある友人は神戸の中心から、何台もの自転車の鍵を壊し、ものの数キロ行かぬうちに瓦礫でパンクさせ、また自転車の鍵を壊し、と繰り返して必死になって逃げてきた。研究室の周りでも家が全壊してしまった人、家族を失った人がいた。それでも私は修士論文の仕上げ実験をするために大学に戻った。その後何年間も、あのときなぜ修士論文を捨てて助けに向かわなかったのか、すぐそこだったじゃないか、と何度も後悔した。私は死にゆく人を目前になにもせずに眺めていたも同然だ。でもそれが私の選択だったのだ、と私は同時に思い返す。