人質の三人のアイデンティティ いくつかの随想

日本人三人は、米軍の劣化ウラン弾使用を追及する若者、一人でイラクのストリートチュードレンをサポートする活動をしている女性、占領下のイラクを写真に収め、レポートしようとしているフリージャーナリストの3人である。彼らのこうした社会的な位置は、一つの議論の的になっている。要はバカじゃないか、という意見が一つ。危険なところにフラフラといって、危険な目にあっているだけのうつけである、ということだ。イタリアやスペインで、スリ窃盗や強盗に出くわす日本人観光客に対する非難に良く似ている。自分の身は自分で守れ、ということだ。

これは多分そうだろう。同次元に扱っていい話ではないが、日本のホンワカした空気をそのまま半径2メートルに引きずって、ウェストポーチをこれみよがしに腰に下げ、南イタリアの街を夢見心地にフラフラする日本人観光客を見かけるたびに私は心の中で、アホだなあ、カモだよ、と心の中で思う。手ぶらで現金はむき出し前ポケ、パスポート不携帯が基本だ。レベルは違うが、ナイーブな観光客であること、使命感に燃えていること、あるいは正しいことをしていると本人が思い込んでいることと、周囲の情勢は独立している。

ところがこうしたばか者、というごくまっとうな非難の尻馬に乗って、かれらの社会活動自体をいっしょくたにして非難するような声もある。この非難は見当違いである。かれらの社会活動に照らして、アンチ・日本であるからして殺されてもいいのである、という主張は、単に政権の判断に対する批判を禁じるということに他ならない。・・・であるからして、こうした意見は取り上げるのに値しないが、それを見ていて私は次のような仮定を触発された。もし人質の彼らの職業と国籍が違っていたらどうなっていただろうか?私はこの疑問をきっかけにさまざまなことを思い始める。

例えば、三人の韓国人牧師が捕らえられ、三日以内に日本自衛隊を撤退させなければこの韓国人たちの命はない、ということだったらどうだったらろうか?ひとまず彼らがイラクに赴いたということ自体は、やはりアホであることに他ならない。そうした事態に対する個々の覚悟はあってしかるべきである。でもそれでも日本政府は、「テロには屈しない」、「自衛隊は撤退しない」といいつのるだろうか?今回の人質が日本人であるから、その生殺与奪権は日本にある、という意識がその背後にはないだろうか。

一日前に、日本人の人質が24時間以内に解放される、という報道が日本のメディアを駆け巡った。次の瞬間から、どこのブログも「助かってよかった」というとりあえずの声をアップした。その次に続く意見はいろいろだったが、私は少々引いてしまった。確かに助かることになったのはよいことだ。でもなんでこんなに、日本中が揃ったように安堵のため息をゆくのだろう。答えは簡単なことで、単にかれらが日本人、同胞だったからである。日本人たるもの、日本人の身の安全をまずは第一に考えるべきである。そうゆうことなのだろう。でもファルージャで死んだ450人の市民は?あるいはこの一週間で負傷した幾多のイラク人の行く末は?いや、そんなことを気にしていたらきりがない、まずはわれわれの仲間、日本人の安全だ、ということなのだろうか*1

でも、もしかしたら昨日ファルージャで射殺されたイラク人の一人は*2、一年前竹下通りであなたを土産物屋に呼びこもうとしたイラク人の男かもしれない。あるいは渋谷の道玄坂であなたが差し出した小銭と引き換えにケバプを手渡した男かもしれないのだ。私は、極貧の大学院生だった時分に、パンを恵んでくれたイラク人のパン屋の店員を思いだす。ドイツからいなくなり、もうコンタクトはないが、かつて自由にならないドイツ語で、パン屋の壁に掲げられたコーランのことをいろいろ説明してくれた彼が、もしかしたらイラクのどこかでコーランを踏みにじる占領軍に怒りを燃やしているのかもしれない、あるいは銃を手に取っているのかもしれない、と思ったりする。

日本の政権の意志、すなわち目下の国家意志に対して、個人が素直にその意志までも沿わせてしまうことの裏には、日本人人質解放にほっとため息を一斉につくことがあるように思える。ほっとする、そのこと自体は当たり前のことだ。でもなぜ、日本人が解放されたときにのみ、これだけ一斉にほっとするのだろうか。国旗国歌の話でも思ったことだが、なぜここまで政権の意志、日本人の同朋意識、本来無関係であるはずの日本人個々人の感情が一致してしまうのか。いや、させようとしてしまうのか。一致していなくてもいいのである。一致していないからそこに論争が起こり、法的手続きがあるのであり、そこに初めてむき出しの個人が生きる可能性が生まれるのだ。

*1:これをきっかけに例えばid:seijotcp:20040411が指摘するように議論が巻き起こっていること自体はすばらしいことだ、と思う。そう、やっとリアルに捉えることができるようになったのだから。想像力がそこにとどくようになった。でもそれはあくまでもテレビに映る人質の姿に我々が共感しやすい、というメディアの力に依存しすぎているということも同時に感じるべきだと思う。

*2:4月12日の時点で、600人に達している。ファルージャの総合病院のRafie al-Issawi病院長の発表ではそのほとんどが、女性、子供や老人だという。また、この数は市内5つの病院で数えた死者数だが、家でそのまま葬った死者もあるので、さらに増える見込みである。一方で死者の数について問われた海兵隊中佐ブレネン・ビルンは、海兵隊の攻撃は正確であり、死者のうち95パーセントは戦闘可能な年齢に達している男性である、と答えている。又、マーク・キミット准将(暫定統治局付)は、海兵隊の攻撃は「驚くべき正確さ」であり、民間人の死者は、民間人の中にまぎれこんだ反逆者の仕業である、としている。(ガーディアン記事