テロに屈しない、という態度と行動は本当にテロ再生産を抑止するのか。

私にとってテロリストはヤクザ、という印象がある。次の例え話のような感じだ。

私には妻と子供3人がいる。その家にある日一人のヤクザがやってくる。おたくの長男がうちの舎弟にひでえことをしたんだよ。おたくにはすまんが、ワビ入れて誠意みせるまで、一番下の娘さんはあずからせてもらった、と、目に入れても痛くないほどかわいがっている一番下の娘をさらわれる。うなだれる長男。ヒステリックに長男を難詰する妻。長男は路上でいざこざになって殴り倒した相手がヤクザの舎弟だとは思わなかった、という。私はどうしたものかと途方にくれる。警察に届けたら、娘はマカオに売り飛ばす、俺らはヤクザだからどうなってもいい、家にも火をつける、とすごんでいたことを思い出し、”誠意”がいくばくかの金ならば、その金をどうにか工面して娘を救えたらそれでよいではないか・・・ でもヤクザに誠意はあるのだろうか?一度金を払ったら、ヤクザは果てしなく要求を重ねないのだろうか?

このヤクザに対する対処法はたった一つである。要求を呑まないこと。警察に届けること、である。”私”がジェット・リーやシュワルツネッガーのように男一匹、わが子を取り戻し、ヤクザを組織ごと壊滅させる自信があるならば別であるが。

一方で、目下の日本人人質事件は、こうした意味でのテロリズムなのだろうか?私は次のような例を思い浮かべる。

私には妻と3人の子供がいる。家の中は険悪な雰囲気で、目を離すと妻や子供の醜い争いが耐えない。私はとてもマッチョな男で、世間で言われるドメスティック・バイオレンスで家族を恐怖の元にどうにか支配し、荒れ果ててはいるが家庭としての面目を保っている。町内のうわさを聞きつけて、ある日顔役のヤクザがやってくる。町内でいろいろウワサになってんだよね、あんた女子供をなんだと思ってんだ、男だったら女子供をなぐるんじゃねえよ。そんな啖呵に圧倒されながら鼻っ柱のど真ん中にパンチを受けた私は即気絶し、簀巻きにされて川に放り込まれる。ヤクザは妻と子供に、もう心配いらねえ、わるいやつはやっつけたぜ、と優しい言葉をかける。女子供の家庭だ、しばらく様子をみるよ、とヤクザはしばしの逗留を勝手に決め込み、子分のチンピラたちまでもが、しっかりしろよ、などとあまり意味のない言葉を妻や子供ににかけつつ、私の家に出入りするようになる。まもなく彼らは我が物顔で大きな顔をしはじめ、長男は、オヤジといっしょじゃないか、と反感をもつようになる。ちっ、ちんけなものしかありゃしねえ、と冷蔵庫を覗き込みながら舌打ちするヤクザに長男はついにキレる。他人の家に上がりこんで、でかい顔してなんだよ!ヤクザはニヤニヤしながら、恩をわすれんじゃねえよおにいちゃん、守ってやってんだから礼ぐらいいえ、といいながら、長男のあたまを小突く。同じく子分のチンピラ達までもがニヤニヤ笑っている。一番弱そうな子分は、そんな様子を横目でみながらも、どうもお邪魔します、家をまずは整頓しないと、と妻や子供に断りながらひたすら家の中の片付け物をしたり、皿を洗っている。まずはこいつから追い出さなきゃ、この家はいつまでもヤクザの溜まり場のままだ。そう思った長男は、その皿を洗っている一番弱そうなチンピラに包丁を押し付ける。あんた出て行け、あんたらにはもう用がないんだ、と叫ぶ。ぶるぶると震えた皿洗いのチンピラは、そんな、私はこの家で単に皿を洗っているだけなのです、掃除だってしているんです、許してください、と涙ながらに懇願する。関係ない、とにかく出て行け、まずはあんたからだ、と長男は叫び続ける。

はたして、このはねっかえりの長男はテロリストなのだろうか。私はナイキの靴を履いた長男の立場を定義する新しい言葉が必要だと思う。人の家に押し入って勝手に皿を洗っている一番弱いチンピラは、これはテロリズムだ、テロリズムには屈しない、と喉もとの刃に震えつつも勇気を奮って叫び返すこともできるだろう。だけどそれは私には、筋違いではないが場違いな叫びに思える。T's diaryの橘さんがずいぶん前から繰り返し言っているように、なにがテロリズムでなにがテロリズムではないのか、皿洗いのチンピラはまず考えてみる必要があるのではないか。イラクの拉致脅迫犯をテロリストと呼んでもいい。でも被害者たるナイーブな皿洗いの日本国がそのテロリストの家に入り込みすぎているのだ。

人質となった三人を我々は危険な紛争地帯にフラフラと舞い込む無防備なバカだ、と非難する。もっともである。でも一方で、その紛争地帯にやはりフラフラと舞い込んだ(自衛隊を送り込んだ)日本国政府もやはり無防備なバカではないのだろうか。

先日も書いたように、スペインはテロに屈した。屈した、と世界のメディアは書いた。しかし一方で、屈していない、とスペインの国民をサポートする意見もヨーロッパを中心に多く見られた。いずれもテロをめぐって、屈した、屈していない、という二律背反の議論に陥っていた。しかしここでいうテロ、すなわちブッシュ政権のいう「テロとの戦い」は、本来国家対個人という形で警察の仕事の範疇であるテロの取り締りを、新たな形態の戦争、と新規に解釈して法に基づかない暴力を肯定する戦い、である。この”非対称戦争”から離脱することをテロに屈する、というならば、スペインは確かにテロに屈したのだ。一方で、日本はテロに屈していない。非対称戦争に参加する、圧倒的な暴力の行使を肯定する、という意志表示をたった今、しているのだ。

テロには屈しない、というのが原則だった。それはテロに屈することがテロの再生産に寄与するから、という明白な理由によっていた。*1目下の状況はどうだろうか?テロには屈しない、と米国がイラク市民の”副次的損壊”を増大させる中で、屈しないことは本当にテロの再生産を抑制しているだろうか。私には逆に見える。テロに屈しない、という態度と行動が、テロの再生産に寄与している、としか見えないのだ。例えばそれは連続多発している拉致脅迫である。だとしたらテロに屈しないという原則は、今この状況において無効になっている。

*1:ダッカ事件で「人命は地球よりも重い」として取引に応じた福田元首相はだから踏み外してしまった。ここに至ってこの事件を引用し、あれは実は結構正しかったのではないか、と同列に論じてしまった浅田彰は拙速すぎる(「続・憂国呆談」Webスペシャル イラク人質問題をめぐる緊急発言 )。同列に論じることができるのか?同列に論じるのは、テロリズムという貧困で粗雑なひとくくりにまどわされているのではないか。それが私の疑問だ。[追記]半ば自分でつっこむけど、そういえば浅田彰は、かくなる状況において、私はモダニストになるしかない、と近代主義者宣言を数年前にどこかでしているんだよな。今回の浅田彰の発言はあちらこちらでボロクソにいわれているけれど、そうした浅田彰の宣言を前提とすれば、氏はまさに「ただの左翼じゃん」とボロクソに言われることを半分期待しており、あとの半分はそれを越える発言を期待している。だからボロクソに言うのは言うだけ無意味である。浅田彰信仰の裏返しに過ぎない。