身の安全、ということと、むき出しの個人

自衛隊イラク派兵で、私の身の危険度がアップする、と私は昨年の秋から書いていたが、今では過去完了。アップしている。米国の場合はどうだろうか。米国が反テロリズムを謳って他国を侵略すれば、米国民の危険度がそのたびに加算されるのもまた同様だ。でもこの危険度は米国政府の強固な軍事ネットワークによって補償された危険度だ。

私はフランスの映画"Killing Zoe"を思い出す。麻薬中毒のフランス男が、パリの中央銀行に拳銃をぶっぱなしながら占拠する。人質の一人は、アロハシャツを着た米国人の観光客で、この男は殺戮が進むのを目の当たりにしてやおら床から立ち上がり、米国のパスポートを掲げながら「私は米国市民だ。解放してくれ」と場違いに堂々とした態度で麻薬中毒男に宣言する。でもその言葉が終わる前に、米国市民は蜂の巣になって即死する。

男がこうして宣言する背後には、米国市民の政府に対する信頼感がある。米国は私を助けてくれる。あるいは助けに来てくれるだろう。似たようなシーンは、ハリウッド映画でよくみかける。I'm an American Citizen!殺すな、さもなくばお前の命も危ない。同じ宣言を日本人はするだろうか。私は日本市民だ、解放してくれ。あるいはどこかの国の局地戦でにっちもさっちもいかなくなった孤立無援の日本人企業戦士を、日本の特殊部隊が救援にくる、と期待してもいいのだろうか。侵略の裏側には、その国の市民を守るための手段が補完していなければ、外国の地でむき出しの日本人である私は単にレベルアップしてゆく危険度になすすべもなく危機感を募らせていくしかないことになる。

身の安全という点に限って言えば、私が主張すべきは二つに一つである。一つは、日本が米国のような国になり、世界に日本国民のための安全保障ネットワークを広げること。強くなってくれ、圧倒的に強く、そのことで私の身の安全が保証されるのならなんでもやってくれ、という立場だ。もう一つは、ミニ米国になるのをやめてくれ、ということだ。私は後者を主張する。日本国に救ってもらうことを背景に生きるのは、先にかいたように、日本の人質になる、あるいは首根っこを押さえられて生きていくことになる、と思うからだ。政権を批判するならば、見殺しにされて当然である、というような議論がまかりとおる国に私の身の安全の保障を期待するのは、単に隷属だ。生命と引き換えに国家の方針に無批判に沿わなくてはいけないことになるのだから。

安全のためには対米従属しかないんだ、という意見もあるかもしれない。でもこれは米国が日本という国の首根っこを捕まえ、その鎖の先に間接的に私が連なっている、ということに他ならない。このくびきの中で、「政府を批判する人間は救う必要がない」と見殺しにされるかもしれない。

これはid:MANGAMEGAMONDO:20040411でコメントしたことにも関係する。

私はAPOさんほど日々勝負ではないけれど、次の契約更新が秋、とかそんな綱渡りな感じなので、共感する。前にフリーランスとフリーターの定義に関する話があったけれど、欲望と金を稼ぐこと、という日常に体をさらしているかどうか、ということと、今回の事件に関する態度はとても関係があるのではないかと思った。不安定さが背景にないと、個人vs日本政権という形で情勢を捉えることができないんじゃないか。というわけで、日本国民がもっとフリーになったらよいのにな、と思った。そうでないと欲望=むきだしの個人が生きること、を邪魔する力に対して鈍感になって国畜化する。国畜化は他人の話だからほっときゃいいんだけど、国蓄化が亢進するとマイノリティになるフリーXXはますます複数の前線でディフェンドしなければいけないという実に面倒くさい状況になる、なんてことを上読んで思いました。

そんなわけで、私はイスラムの学者、ファティマ・メッシーニの言葉を思い出したのだった。「不安をわが国とせよ」。