自己責任について


「自己責任」という言葉の自己言及性と不可能性。責任とは応答することである。responsibilityと英語でいうが、これはresponse-bility、直訳すれば「応答性」になる。なんらかの問いかけや問題提起にたいして応答することが責任、となる。ドイツ語であれば、Verantwortung 遂行ー応答であり、同様の成語となる。つまり

自己責任という言葉を英語であれ、フランス語であれ、直訳して使うとほとんどの文章は、意味不明になる。

英語で日本語でいうような「自己責任」といいたいときにはat your own riskであり、責任ではないのである。なぜか。

責任とは応答することである、という理解に基づけば、「責任」は複数の人間が関わる社会で生じる人間の役割と機能の一つということになる。誰がその人間の集まり=社会を代表し応答するのか、という役割。つまり社会性を抜きに「責任」は存在しない。「それは私の責任である」と言明した時に、それが同時に個人のみに関わる事柄であることはありえないのである。したがって、「自己責任」は社会性の切断であり、社会性をその本質としてはらむ「責任」というあり方そのものを同時に否定する概念にしかならない。つまり、「自己責任」は社会的な意味において不可能なのである。ありうるとしたら、社会から個人を排除すること。しかし社会が個人のあつまりであるからして、自己責任という責任のあり方の辿り着く先には社会の崩壊がある。

例えば拳銃を持つある人が、その銃口をむけた先が自分自身のこめかみであったとしよう。この状況において、「自己責任で引き金を引く」と本人がいったとしても、それは不可能である。引き金を引いた瞬間に応答可能性が消失するから。私がいう「自己責任」の自己言及と不可能性とは、このことを指している。当然ながらそのかたわらで「自己責任で引き金を引いてください」と他者が告げることも、また不可能なことを述べているに過ぎない。

同様の不可能性の高いよびかけとして「自粛を求める」がある。自粛は求めることはできない。求めた瞬間にそれは自粛ではなくなるから。「自粛を求める」は比較的解剖しやすい。なんらかの権威なり権力が、個人なり団体に対して行為の停止ないし禁止を告知しているにもかかわらず、それが権力の行使ではないかのごとく装うための建前的用法が「自粛を求める」。ある人間が銃口を他者のこめかみに向けながら「自粛してください」。それは端的にいって「やめなければ撃ちます」といっているにすぎない。

社会が無責任であることの体のいい表現として「自己責任」が都合よく運用されている。行政府は社会そのものであり、無責任であることはその存在意義の自己否定になる。その隠蔽が「自己責任」という言葉の本質である。

「自己責任」は仏教でいう「自業自得」と考えたほうがよい。行いの良し悪しが結果につながる、という因果応報の鉄則が逆に悪い状況にある人間は行いが悪かったからである、という断定を導く。それは決定論的な宗教であり、日本の社会は無意識のうちに、それを内面化し「自己責任」を乱発し、社会の責任を免罪している。