ホームレス・老人・子供

なぜ子供が減ったか』というhasenkaさんの記事のタイトルを見て、その文章を読む前に反射的に私の心にうかんだ回答は「子供がフリーライダーだから」。社会にタダ乗りをしている人間を正面から認めるような説明が今失われている。失われている、というか無効なのかな。ホームレスしかり、老人しかり。あるいは失業者。病人。引きこもりもそうかもしれない。社会的弱者を救え、といえば「なにタテマエを」という反応が大手をふる昨今である。子供なぞ社会のフリーライダーのさいたるものだ。ただ乗りしやがって、という雰囲気が社会にあるうちは子供が減るのもあたりまえである。それだけ寛容さがうしなわれているということなのだ。
hasenkaさんのエントリーを読んでおおむねそうだな、と感じたけれど思ったのは子供が増えないのは「産まないという宣言」なのかなあ、ということ。積極的な拒否というよりも、フリーライドの雄たる子供という存在を認められないというそれだけのことではないか。それこそ100年前だったら「一家のなかの働き手の増大」とか寛容さ以外にも子供を生む理由がいろいろあったんだろうけども、聖なるお子様の世界ではこれも無理である。
人口が減るんだったら移民をどんどんうけいれるようにすればいい。移民というのはスタートアップがまさにフリーライドだからこれにかんしてもまた寛容さがない。移民もまた社会的弱者だ。「日本人は寛容ではないから、移民をうけいれたら大変なことになる」という輻射的移民受け入れ反対の立場まである。まあ、だからおおまかにいえばやはりフリーライド拒否の社会が原因なのである。
[追記]
社会の機能というのは保険会社みたいなもので、人生のさまざまな局面でフリーライドになってしまう人間をサポートすることにある。子供であること、失業者であること、老人であること、病人であること、などはこうした局面の具体例だ。「情けは人のためならず」という格言はこの保険会社機能を指摘していることにほかならぬ。上ではこの機能を「寛容さ」として表現してみたのだが、取引という意味で実際的な機能があるともいえる。
今の世の中からこうした機能の発露があたかも偽善のように扱われてしまうのは、社会が社会として自己目的化しつつあることが理由ではないか。社会の保持が自己目的化した状況では、個人はまさにその要素であって、要素がどの個人に入れ替わろうが社会そのものの駆動にはあまり関係がない。こうなると社会が駆動するための効率性というコンセプトが生じ始める。より能力のある要素が社会を駆動させるほうが、社会の安定性に寄与するということになるのである。このような状況ではまたその駆動に無賃乗車するふとどきもの、という見方がでてくるのも無理はない。社会において無力である存在は、自己目的化した社会からは排除され、その救済は施しでしかなくなるのだ。
こうした社会→個人という下向きのベクトルではなく、保険としての社会、すなわち個人→社会というベクトルで考えてみると、個人おのおのがその人生をうまくまっとうするために社会があるわけだから、調子のいいときだけ調子の悪い人間を「無賃乗車」と揶揄するのはたんに今のことしか考えられぬバカ、ということになる。社会の規模が小さい場合にはこうした互助性は目に見えやすい。たとえば中世のように変わらぬ日常が延々と続く中では、寄り添って生きることのメリットは長期のスパンを通じて実感することができるだろう。しかし社会が肥大化し、人事が流動化しシステム化されると、どこの他人ともわからぬ人間のために金を払っている、困ったものだという感覚がより実感に近くなる。特にこの点の問題を一点指摘するとすれば、国家と個人の間の関係が直で結ばれた状況では、間にさまざまなレベルの社会性が意識されない、というよりもなくてもいいことになってしまう。社会の肥大化とシステム化はさまざまなサービスを個人レベルでもたらし、コンビニとワンルームマンションがあれば「一人でも生きていける」という個人独立の実感をもたらすことになる(もちろんこの実感は幻想だろう、というのは先日ちらっと書いた)。
主題に戻ろう。子供をフリーライド、とみなすことの立場は二つあるだろう。ひとつは親という当事者として子供をフリーライドとして眺める立場。「かわいいから」ないしは「生きがい」といった価値をうけとるかわりにフリーライドをさせることになる。さらにフクザツなことを言えば、「生きがい」と思い込むことによってフリーライドを認証する理屈にするという人間特有の正当化心理も働いているかもしれない。かくなる状況では、「かわいい」ないしは「生きがい」になること・思い込むことができることを確実に想定できなければフリーライドをさせようとは思わないだろう。いずれにしろ、うえに述べたような個人独立の実感からすれば、こうしたフリーライドを認証するか否か、という点からしか子供を作るか否か、という決断をすることはできなくなる。
もうひとつの立場は、非当事者が子供をフリーライドとして眺める立場。すなわち親以外の人間である。親ではないから責任はない。親がフリーライドをさせているという関係性を傍から眺め、親が無賃乗車させているのであって社会に負担をかけているわけではないから、失業者、移民や病人に対するほど「世間に迷惑」とは思わない。だれに乗車しているか、ということが自己目的化した駆動をする社会の中では実に重要なのであり、子供の場合は親である。その存在がフリーライドである、と糾弾されることはめったにない。反動としてフリーライドさせている親の負担は増大する*1再帰的に親になることの決断はハードルが高くなる。

*1:「かわいい」「生きがい」にとどまらず、”フリーライドの子供”という土俵設定が、その鏡像となる見返りを求める状況になるという点は、追記するまえの時点でトラックバックでコメントしてくれたsivadさん(『子供は親の競争の具になってしまっていること』)、ブックマークのコメントのid:nanakosoさんの『「子供のためにこれだけ多大な社会的投資をしているのだからゴグツブシなどの不良品をリリースすることが許されない。」という親への圧力』、id:dasaitama_osamuさんの『親は子供を「役に立つ」人間にさせるために過剰に教育したくなる』といった現象としてあらわれることになる。社会的に無力な子供がそこにいるという事実をそのまま認めることのできない枠組みが「フリーライド」という概念とともに生じたのである。