弱者暴力雑感

下記引用の元の文章の意図は別のところにあるのだが、部分的に私はああ、と思った。

 繰り返すと、一つの暴力(例えばいじめ被害)に苦しんだ人間が、なぜ別の他人に全く同じ暴力(いじめ加害)を振るい、しかもその相手に当のレッテル(お前こそがいじめっ子なんだ)を貼り付けてしまうのか――のみならず、これらの折り重なる自己目隠しに、なぜ、本人が永久に気付けないのか。
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生きづらいというより、「生」自体から見捨てられたような正真正銘の弱者であり、しかもそれゆえに「弱者」の自己絶対化や弱者競争に陥ることを強く拒もうとさえする人々が、なぜ、自己矛盾的な暴力に自らくいつぶされてしまうのか。その蟻地獄のような人生から何年たっても一歩もぬけられないのか。

弱者暴力との抗争――内藤朝雄氏のよわよわしさについて(後半)

社会(あるいは対個人でもいいが)に否定されたという経験が積極的には反社会性、消極的には没社会性行動を萌芽する。全否定はすなわち殺す殺されるであるからして、問題になるのは部分的な否定だ。同時に否定されなかった部分、すなわちそれでも生きている、という事実は、先鋭的なしかし偏った社会性に逆投射される。自己矛盾は部分的な否定(死)と否定されなかった部分(生)の矛盾である。矛盾の解消はない、と認めることからしか生はありえないのだが、その確認以前の状況では矛盾そのものが生を駆動する。部分的な否定の否定という雲をつかむがごとき作業。この過程における足場として絶対的弱者が仮設される。絶対的弱者であればこれ以上否定されえないということから己とその経験を筆頭に「否定した社会」も含めて否定することが可能だからだ。
なお、引用は愛と暴力の間@G★RDIAS経由。
ちなみに「殺意をもふくむ愛」ってのはちょっとなあ。三島由紀夫の「憂国」みたいな絢爛豪華な愛と暴力を想像してしまってよれよれした気分になる。ごくありきたりな人間関係として対立してもいいんじゃないだろうか。