『私は、私自身の原因である』

殺害予告を私は受けたらしい。

2007 年10月07日 hashigotan 殺, やられた分の反撃「なんじゃこりゃ」とはなんやねんオドレは調子に乗るなよ若造が!お前は不妊治療中の女と子供の居ない女を敵に回したも同然の反応を示したのだお前のような糞ガキに人の痛みが解るわけなかろうがチンコ切り落とすぞ

殺す、といわれたのは実に久しぶりなので経緯などを含めてメモしておく。一ヶ月前にたらたらとネット・トラバースしつついろいろな記事を読んでいて、「なんじゃこりゃ」という短いコメントを付してとある記事をブックマークした。、『世の中の非常識な子連れ主婦に対して注意したい事(俺が納得するまで続く)』という文章である。5つの節にわかれており、社会道徳を説いている。そしてこの社会道徳はどうやらこの筆者自身が感じている不快さによって根拠付けられる道徳らしい。これに私は少々困った。社会道徳と、筆者の個人的な不快感が”非常識”というタイトルにつけられた媒介項を通じねじれながら接続されているからである。個人的な不快さに関しては私は、ああ、そんなこともあるだろう、と理解する。しかし、この不快さが社会全体における原則として認められるかどうか、といえばそれはなかなか難しい。そこで「なんじゃこりゃ」と私はコメントした。
ほぼ即座だと思うのだが、ビール祭りの写真をアップした私の記事にブックマークコメントがつけられた。一番上の引用文がそれである。記事の内容に無関係であること、四十にも近い私が若造、糞ガキといわれた少々の恥ずかしさはともかく、捨て台詞にはそれこそ、なんじゃこりゃ、などとしばし考えたのだが、要するにその激烈さに「なんじゃこりゃ」という私の疑問符はさらに膨らんだのだった。すなわち、hashigotanさんによる元の記事のほとんどの部分で説かれているのは「私、ないしは不妊の女に迷惑をかけるから、子供をつれまわすな」という妙に規範的な主張内容なのだが、一方でこちらの無関係な記事へのブックマークコメントに"殺"、”反撃”という刺激的なタグでコメントをつけている。一貫性をそこに見いだすとするならば、この人間は天誅と称して人を殺す連中と同類だ、と判断するしかない。
迷惑そのものは私はどうでもいいと思っている。迷惑をかけられながらかけながらよちよち生きていく、というのが世界だと私は思っているし、そもそも世の中には破天荒に迷惑な人間もたくさんいる。迷惑をかけるな、と説きつつ迷惑をかける人間もいる。ま、いいか、と思ってそのままにしたのだが、最近このhashigotanさんという人が話題になっているので、改めてそのブログを読んでみた。不幸な過去を背負っており、そのことが理由で世間に恨みを抱き、その恨みに絡め取られてもがき苦しんでいる人間なのだ、ということがわかった。同情できる内容だ。なるほどなと思った。あちらこちらでの過激なコメントが"hashigotanだから"ということで認められサポートされる理由が理解できた。この書き手は優れて私小説家的存在なのである。
しかしながら、「なんじゃこりゃ」に対する上のようなコメントのしかたは、それを勘案しても傍若無人だ。太宰のファンでもないのに、通りすがりの太宰に心中を説かれて困惑するのと同じような意味での傍若無人さや、チンコがどうのこうの、という夢に見てうなされるような点だけではない。それよりも次の点だ。私は「なんじゃこりゃ」によってhashigotanさんを敵にまわしたかもしれない。しかし私は本当に「なんじゃこりゃ」と書くことで『不妊治療中の女と子供の居ない女』一般を敵にまわしたのか。自分ひとりの立場から、社会はどうあるべきか、という形で主張してほしいと思う。どこかにいる『不妊治療中の女と子供の居ない女』を懊悩と妬みに満ちたな存在として一般化し世間に知らせ、共闘を謳いながらもそうではないかもしれぬ彼女達を『敵に回した』ことになるのはhashigotanさん自身かもしれないのである。少なくとも『非常識』だから注意するというエクスキューズをつける点は理解できない。主張はそれぞれが思うように感じるようにそのままストレートになせばよい、と私は思う。

<欠落>のポリティックス

ひとりの人間に可能な能力を機械的に分類し、ならべて数えたら1000あるとして、そのうちいくつそれぞれの人間にあるかカウントするとする。900ある人もいれば、300ぐらいの人もいるだろう。300の人は900の人をながめて、ああ、ワタクシにはなぜあの600ぶんがないのであろうか、とため息をつく。200の人が300の人をうらやんで、その100の分をどうにかしてくれ、私は悔しくてつらいと訴える。しかしながら世の中には値が1である人もいる。すなわち最低限生きているだけ。泣くことも怒ることも笑うこともできない。食べることさえできない。なにも表現することができない。したがって悔しさやつらさという表象もありえない。お前が生きているから私は苦しくて悲しくて悔しくて仕方がない、とメッセージを発することもない。1の人は実は100でもいいから欲しい、と願っているのだろうか。そのことはしかし確かめようがない。我々は、100ないし200ないし300あるいはより大きな値の状態から”きっとそうに違いない”と推測しているに過ぎない。結局のところ私には理解不可能な1の人が目の前にいる、というだけである。しかしこの人にも1はある。0ではない。0の人とはなにか。死者である。死者は、生きている人間にたいしておまえは生きている、だから死ねとはいわない。死んでいるからなにしろ能力値がゼロなのである。しかしながら不思議なことに生きている人間は死者のメッセージを受け取る。特攻隊員の生き残りは死んでいった仲間にすまなくて仕方がない。そんな風に思いつめることはない、と周りの人間は説得するが、特攻隊の生き残りはどうして自分だけが生き残ったのか、と考え続け、死者に対峙しつづける。大災害の生き残りも、その幸運に感謝するよりもなぜ自分が死者でないのかを問い続ける。特攻隊員や大災害の生き残りほどではないが、まわりの人間が死ねば我々は死者を想う。しかしながら、その死者のメッセージが果たして本当に死者のメッセージであるかどうか確認することはむろん不可能である。
200の人は1や0の人の欠落ぶりを理解することは不可能である。同様に300の人間は200を理解することはできない。900に300を理解することもできない。ここに逆説がある。能力の数が多ければ、むしろその数の分だけ少ない状態を理解することができないのである。”xxが欠落した状況を想像せよ。”想像することはいつだって可能だ。でも理解することはできない。もしこの理解をしようとするならば、チンコのみならず手足を切り落とし、舌を抜き、目を潰してこれでも足りぬ、と結局のところ死なねばならない、ということになる。
自らの罵倒をいわば持たぬことの権力、あるいは持たざるものの社会運動として正当化するhashigotanさんの理屈にしたがえば、逆に hashigotanさんは自分よりも弱い人に対して自らをはばかっているだろうか。究極には死者だ。おまえにはわかるまい、と叫ぶ前に、わかっていないことがいろいろあるのではないか。弱者を自分が踏みつけにしている可能性を想定しないのか。弱きもの、もたざるものの代表と称しながらそれを犠牲にしているのではないか。たとえば、すべての不妊の女性、子供をもてぬ女性はhashigotanさんのように妬み深いと断言できるのか。これらは hashigotanさん自身の理屈が「ないことの権力」に依拠するがゆえに含臓している矛盾である。
ゆるぎなき自己同一性ほど疑うべきものはない、と私は思っている。少なくとも自己の強弱、能力の多寡で行動、たとえばあたりかまわぬ罵倒が正当化(覚悟、と自己規定しているが)されうる、とする考え方には私は同意できない。それは広い意味で、強者の論理にすぎない。

寺山修司の言葉

ここまで書いて実はこの一週間放置していた。なんか言い足りないなあ、と思っていた。本来だったら、なんかいいたりない隔靴痛痒ということで、放置しっぱなしだと思うのだが、そうこうしているうちに永山則夫のことを思い出した。1968年の連続射殺魔事件の犯人である。恵まれない経歴が彼を無差別殺人に走らせたという話は有名だからおそらくほとんどの人が知っているだろう。永山則夫は1997年に死刑になったが、獄中で多くの詩・文章を残している。その中に寺山修司との論争があるのだが、寺山修司の次の真摯な言葉は今回の話にも適用されるかもしれない。というよりも、私がいいたいのもこのようなことだったのだと思う。より一般的に適用されることだし、私自身への問いかけにもなっている。

寺山の『永山則夫の犯罪』には、次のように書いてある。

<彼は呪いつづけることによって、自発性たりうる青春をもつことができた。だが、彼は彼の固有性、その俗物的野心、虚栄心、欲望、清潔好き、孤独、自尊心、純情、-----といったもののすべてを、ルンペン・プロレタリアートという一般化へ封じ込めてしまって、彼自身の『日付』を焼き捨て、加害者から被害者へ-----無知から知識人へという転身をはかったのである。私は、彼のこうした『見事な変身』をまったく信用しない。いつのまにか、知識によって矯め、育て、制御されつつ失われてゆく毒の部分を、革命への起動力としてゆくこと、すなわち呪詛の革命性の方を、はるかに有効だと思ってきたからである。自分の面倒を見てくれなかった母親に『死んだ人さ、手えついてあやまれっ』と怒鳴り、『手紙出しても、金はもとより返事さえも送られてこない』兄弟たちを殺そうと思い、そして『自分のようなルンペン・プロレタリアートを生み出した国家が犯人だ』とひらき直る永山には、つねに『私』という視点が欠落している。何一つ、『自分の選択』と見做さないのが永山の弁証法なのだ。だが、永山の『原因があって、結果がある』と言う考え方は現実的ではない。何事も、『結果が出てから原因が見つけられる』のであり、結果のない原因などというのは存在しないからである。あらゆる意味も定義も本質も、存在に先行することはできない。まず、『何かが起こり、それからすべてはじまる』のである。私は私自身の原因である。この認識をもたぬ限り、永山はいつまでも、他人の不始末に原因をもとめつづけて、自分の無主体性を、正当性だと言いはろうとする。だが、『私は、私自身の原因である』と言い切れるものだけが、歴史的思考をあらたに生成する自由をもつのである>

永山則夫連続射殺魔事件@無限回廊