近況

あっという間の二ヶ月、というのも、研究所で開かれるあのワークショップ、このコース、と妙にその手の集いに関わることが多く、結果として忙殺。夏休み期間のマイペースが懐かしい。例のごとく、これ書いているのは11月5日だが、10月31日付で投稿。

  • 無珍先生がますますおしゃべりになって、朝から晩までなにか言っている。ドイツ語と日本語、ということを教えたらすぐに理解して区別するようになった。「ドイツ語でモント、日本語で月」とか「ピングイーネ、ドイツ語、ペンペン、日本語」とかぶつぶつ言っている。なお、ペンペンは彼の言葉でペンギンである。家でしゃべっているときに「ドイツ語では」とかとか解説してくれるので、はやく大きくなってドイツ語の書類をやっつけてくれるようになったらいいなあ、などと思っている。
  • バイリンガル状況で育ったもっと大きな子供を持つ人に聞くと、通訳をしてくれるので実にありがたいのだそうである。
  • XXから、という用法がこの一ヶ月ほどのお気に入りで、めしくうぞー、と声をかけると「今遊んでるから」とか生意気にもいいつつレゴで遊んでいたりする。しかしなー、飯はくわなあかんぞ。
  • 義理の妹が二週間ほど日本に一時帰国。その間に無珍先生は私のベッドで寝る癖がついてしまった。
  • 大学院時代にミュンヘンで世話になったアメリカ人の教授が亡くなった(アメリカ人の先生は二人に世話になったが、その片方である)。質問にオフィスに行くと、うーむ、それはだな、としばし概説をしてくれたあと、席の後ろにある巨大なファイルキャビネットを開けて、分厚いフォルダーをこれ見なさい、といいながら私に手渡した。フォルダーは研究者の人名ごとに分けられていて、中には論文だけでなく、1950年代の手紙の研究に関する熱いやりとりとかグラントの共同申請だとか関連する書類が全部入っていた。古いものはもちろんタイプライターで書いたもの。本題はともかくも、そうしたやりとりの記録を眺めるのは実に参考になった。職人研究者気質の人で、細胞の世話をしているときにラボで倒れてそのまま、だそうで、実に急な話ではあった。メーリングリストをみると、アメリカ人はそうしたまるで科学への殉死のような死に対して感動する、という雰囲気がある(たぶん日本でもそうなんじゃないか)。ドイツではそうした死に方は「やりすぎ」といわれるだろうなあ、と思う。私は少々感動するけれども、彼が内面でいろいろ悩んでいたことも知っているので、あまり簡単にはその死に方をうんぬんすることはできない気分である。深く合掌。
  • ちなみに娘さんが私が院生だった頃にはドイツパンク少女で、一度紹介されたときに私はその格好に少々驚いた。教授はその自分の娘がものすごく嬉しいらしいのが印象的だった。それにしても彼が管理していた膨大なコンストラクトのライブラリはどーなるんだろうか。
  • 久しぶりにシニアな人々と私が担当している部門のこれまでとこれから、についてディスカッションしたりしたんだが、ものすごく忙しくなりそうで頭がいたい。