イデオロギー

気温が摂氏15.0度である。これは測定値であり、厳密に測定された値である。一方、15.0度の屋外において半袖で1時間過ごしたときにどれだけの人間が風邪をひくか、という統計値があったとする。仮に100人に1人が風邪をひく、という結果だったとする。なにもしなくても健康の不注意から風邪をひくことはあるわけで、このことを勘案した上での解析結果、余剰のリスクである、とする。

あなたは15.0度の屋外で半袖のまま1時間過ごすべきだろうか。この国は妙な国で、国をあげて半袖で外で過ごすことを奨励している。薄着は健康の増進に役立ち、ひいては社会を安定させることになる、と考えられているからである。「半袖で社会貢献」などといった標語まであり、街角でそんなノボリをみかけることもある。

本来科学者は、計測することしかできない。あくまでも計測。数字をだす。とはいえ、ある科学者は「100人に1人しか風邪を引かないんだったら半袖で外ですごしなさい、たいした話ではない。ぬくぬくと厚着をしているほうがよっぽど身体に悪い」と人々に向かって発言する。別の科学者は「いや、100人に1人でも風邪をひくのであれば、あなたは半袖で外に出る必要はない」と人々に向かって発言する。

いずれの科学者が「科学的」なのだろうか。実はいずれの科学者も科学的ではない。前者は結果から言えば体制よりの発言をしている科学者である。後者は国策に反している。反体制である。したがっててその発言において、いずれの科学者も政治的なイデオロギーを語ったことになる。この点においてそれはもはや科学ではない。その科学者が普段から意識することなく(あるいは意識的かもしれないが)政治的傾向が少なからずそこには反映される。計測値までが科学なのである。にもかかわらず、科学者という肩書きをもつ人間が発言したことによってそれがあたかも客観的な科学であるかのごとく捉える非科学者は少なくはないだろう。

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国家を運営している人間は必死になって国家を運営しようとしている。一部には個人の利益とか名誉欲を満たすために「みなさんのため」という仮面をぶらさげて運営している人もいるかもしらんが、おおまかには国家を守り、多くの人々の生活をうまく継続させようとしている運営者が大半であろう。彼らが必死に考えるうえでどうしても導かれるのは全体最適化である。最大多数の最大幸福。

国家の運営を担当しているわけではなくても、全体最適化が結局いちばん重要なのである、という意見をもつ人は、国家を運営している人間と似たような考えになる。これは運営者の目線を共有することであるから当然なのである。

非常事態における消費者の買い占め行動について考えてみる。大地震などで買いだめが跋扈したときに、「買いだめはよくない」と誰もがいうだろう。国家レベル、とはいわないが、社会のレベルでの全体最適化を考えれば、買いだめはよくないに決まっている。ただでさえ足りなくなるモノが個人の物置に隠匿されることで必要なところに行き渡らなくなるからである。私もそうだ、と思う。私はこのことにあまり疑問を持っていなかった。

花森安治という人がいた。すでに故人であるが、「暮しの手帖」という雑誌を作った編集者である。広告を全く掲載せず、家電製品などの性能テスト・比較を行うので、メーカーには恐れられた雑誌だ。私もそのことは知っていたのだが、先日花森安治の伝記を読んで、その考え方に少し触れることができた。私の頭に最も強く残ったのは、オイルショックの時に花森安治が、主婦によるトイレットペーパーの買いだめを擁護したことである。その背後には次のような花森安治の考え方がある。

ぼくらの暮しを、まもってくれるものは、だれもいないのです。
ぼくらの暮しは、けっきょく、ぼくらがまもるより外にないのです。……

政府というものは、…… 資本主義の国でも、共産主義社会主義の国でも、…… もともと、…… 国民の暮しやいのちをまもる、それを何よりも第一に考えている政府など、この地球の上のどこにもありはしないのです。

戦時中の花森安治は、全く逆のことをしていた。大政翼賛会で働いていたのである。芸能班長として宝塚歌劇団の戦時向け脚本をかいたりしている。大政翼賛会をしらん人でもつぎのような標語は知っているだろう。

さあ二年目も勝ち抜くぞ
たった今!笑って散った友もある
ここも戦場だ
頑張れ!敵も必死だ
すべてを戦争へ
その手ゆるめば戦力にぶる
今日も決戦明日も決戦
理屈言ふ間に一仕事
「足らぬ足らぬ」は工夫が足らぬ
欲しがりません勝つまでは

昭和17年11月、大東亜戦争一周年記念国民決意標語募集、応募32万余。
主催:大政翼賛会朝日新聞東京日日新聞、読売新聞、後援情報局

主に大きな新聞社の記者が引きぬかれて構成されたのが、大政翼賛会である。このことに関して、戦後かなりたってから花森は次のようにいっている。

生まれた国は、教えられたとおり、身も心も焼きつくして、愛し抜いた末に、みごとに裏切られた。もう金輪際、こんな国を愛することはやめた。

この裏切られた先に、全体最適化の否定、すなわち買いだめ行動の擁護がある。個人、それも生活者ひとりひとりの立場に徹底的なまでに立っているのである。少なくとも、東日本大震災の際に買いだめをどうどうと擁護するほどの人間を私はみかけなかった。生活者ひとりひとりの実感の側に徹底的にたって買いだめさえも擁護する、そうした人がいた、もはやいない、ということは知られてもいいだろう。

花森安治の仕事

花森安治の仕事

追記

ブックマークのコメントが面白かったので特にいくつかピックアップしてみる。
id:Erlkonigさんは
「弱者が大挙して買占めに走った時にいちばん割りを食うのは強者ではなく買占めに乗り遅れる更にどんくさい弱者なので、どんくさい私は私の身を守るためという利己的な動機で買占めに反対します」という。
買い占めが席巻する中で「私は困ります」と声を上げても、多勢に無勢でおそらく飢えるないしはトイレットペーパーの枯渇という情けない結果は免れえないであろうから(とはいえ、昭和40年代にはまだ新聞紙を切って落とし紙にしている家とかあったのを思い出す)、これは社会に対する同情、あるいは社会倫理の要請である、と考えられる。社会を調整する政治的な機構、たとえば国家や任侠はこのようなところから発生することになる(あるいはイデオロギーの発生だ)…のであるが、id:takehiko-i-hayashiさんは
「政府に騙された→政府いらなくね?→自己利益最大→万人の万人に対する闘争→やっぱ政府いるかも→政府つくる→政府に騙された→(最初に戻る)」
という統計と最適化の専門家らしい、俯瞰あるいは諦念さえ感じるコメントを残している。「買い占めはダメ」という殆どの人が納得している点に断固反対する人がいないのは社会としてバランスを欠いた状態なのではないか、ということを林さんが示した時系列にならっていうと、時系列そのままに皆が一斉に順繰りに社会への関わり方をアップデートしていく状況というのはなんともダメだなあ、というか。循環する時系列のそれぞれの時点のポピュレーションがバラバラになって、同じ時点に混在している、そこでバランスがとれるというのが社会なのではないか、と思うのだがどうも今はそうではない。id:yukitanukiさんは
「そのうち「この論文は学位がかかってます」「ポスドク最後の年です」「研究で生計を立ててます」「ぎゃふんと言わせたい人がいます」「人間です」を利益相反に明記する必要が出てくるな」
というのだが、人間の行為から人間を排除しようというそもそもの科学の方法論は、日本の歴史において繰り返されてきた形式主義の焼き直となって社会化し、出てくるまでもなくすでに冗談のような話になっている、たとえばその片鱗が「二十歳以上」のボタンをコンビニで押す、というわけのわからん話になっていたりする、と私は思う。あれはネットのポルノサイトの「18歳以上ですね yes no」がリアル世界に登場したという意味でヒューマンインターフェースの歴史において画期的な話ではあるのだが、たぶん日本はこの線で世界の最先端を突っ走るだろう。ついでなんで妄想を書くと、ケータイのSIMは皮下注射されるようになる。それが個人のIDになる。ついに近代的自我が日本においてかくして実現するのである。
結果、まとめるとid:KaeruHeikaさんがいうように「内なる無意識的なイデオロギーと向き合い、考え直すほどの強靭な精神が失われていることへの憂い。規範や、自分が繰り返して来た行動を、否定できる強さの話。科学や買占めの話は本筋ではない」、ということなのである、うまいこというなあ、と思っていたらid:Midasさんが
「買い占めは単なる購買1)金持ちだけが買い占めれる2)「私は理性的な市民だが誰かが買い占めると困るから私も買い占める」他者を想定するがゆえイデオロギーから1歩も出てない。擁護すべきは買い占めでなく略奪」
とのコメント。花森安治よりもう一歩踏み込んだ、いわば”所詮プチブルが”という意見を述べている。というわけで、一人ぐらいはそのような意見を言う人もいるわけで、まあ、世の中捨てたものではないのである。あるべき社会というのはたとえば、id:Erlkonigさんとid:Midasさんがマンションの隣人でベランダ越しに互いに「そんなのありえん」と議論していたりする姿ですな。それが実に想像しがたい、というのが実に憂うべき現状なのである。