三回忌
6月の終わりから7月のはじめにかけて日本に行った。用事はいろいろあったのだが、もっとも重要だったのは3月末にしそびれてしまった無珍先生の母親の三回忌である。震災がある前に飛行機の仮予約などもすませて、義理の妹ともども三人で3月末に日本に行く予定だったのだが、原発がどうなるかわからなかったので、震災の数日後にはキャンセルした。そんなわけで、他の用事にあわせて3ヶ月遅れの三回忌になったのである。
無珍先生が三回忌にいないのもなんだよなあ、としばし迷ったものの、わざわざリスクを負わせる必要はないだろう、と思って結局連れていかなかった。我々をとても気にかけている(我々、というか無珍先生である)こちらの友人一同にしてみれば、もし連れて行くならば「感情的な行動」と映るだろう。日本の方々はしらんかもしれないが、国連によるリスク評価によれば原発事故後の日本は紛争地帯に相応するリスクレベルなのである。3月に予定していた三回忌には無珍先生の母親の友人なども招待するつもりだったのだが、無珍先生がいないとなると、元気にそだって走りまわる彼を披露することもできず、集まる意味も半減のような気がして、ごくうちわの集まりになった。
子供の頃、小学校の同級生などが法事で学校を休むのがうらやましくてしかたがなかった。私の実家は宗教に縁がなかったので(初詣にもいったことがなかった)、「法事」とはいったいどんなによいものなのか、といろいろ想像したものだった。それからはるかに時間はたってしまったものの、このところ法事づいているのでついにその全容をしることとなったのだが、これが結構よい。彼女のお墓のある寺が禅寺なので、若い雲水がぞろぞろとでてきて、お経を斉唱し、そでを優雅に翻しながらながらぐるぐると円になって歩いたりして式が滞り無く進行していく様は、こういってはなんだが、様式美であり見事に芸術的である。
すでに二度ほどそうした儀式を経験しているので、なにが執り行なわれるのかは想像の範疇であったのだけれども、式の間に自分の中に全く新しいものを発見して、少々驚いた。最初のお葬式、一周忌の時にはたしかに「彼女は死んだ」と考えていたのだが、実はどこか彼女が生きているように感じていたらしいという、そのことを発見したのである。三回忌の式の間、彼女がいないこと、本当にいないのである、とはじめて心のそこから理解している自分を感じて、ああ、これは前とは違う、と私は思ったのだった。
私は式の間ずっと、彼女が二ヶ月の間感じていたであろう痛みのことを思いだしていた。いろいろな検査や治療があったけれども、それは多かれ少なかれ体に針をさしたり、切ったりして、医薬を導入したり、圧を解放する治療だった。意識がないのに痛みに反応する彼女を見ていて、本当に痛々しかった。最後の一ヶ月には、彼女の微妙な反応も見逃さないようになっていたので、私はとてもつらかったけれども、一人よりはいいだろう、となんども思い直して、針をさす医者の反対側で私は手をずっとさすっていた。痛い、と彼女が声をあげることはなかったが、それが痛いことは疑いようもなかった。はたの私でさえ、顔をしかめるほどだった。そんなことを式の間に想像だけで再び痛い気分になって思い出しているうちに、同時にその彼女が今はいないことを全面的に受け入れている自分が見えたのだった。式から数週間たったが、ぼけっとしていると、あの言葉や叫びにならずに彼女が無言で受け止めていた痛みをふたたび思い出して、あの痛みはどこにいったのだろう、とせんない問が胸に浮かび上がってくるのを抑えることができない。それはどこかに本当に消えてしまった叫びで、無言のまま私の中に木霊している。いつかそれを私は本当の言霊に産み換えることができるだろうか。
法事に持っていくお供えは花や食べ物である、食べ物のお供えは、墓に供えかえなければ式のあとに雲水たちが食べる、と耳にしていたので家族のものにもその旨伝えて若い人達が好きそうなものを山のように持っていった。式のあとでお供えの食べ物を片付ける若い僧の顔が見事に喜色満面だったので、あー、よかった、と私もうれしかった。門前の花屋によると、法事の檀家が与える心付けなどが若い僧の唯一の小遣いで、そのなけなしの金でコンビニの鶏唐揚げ弁当などを買ってうまいうまいと食っているそうである。笑えるような話だけど、生きることのどうしようもないバイタリティが垣間見えるような気がして、私には死とよいコントラストをなしているようにさえ思える。生きている、というのは実に愛すべき、滑稽なことなのだ。