可視化と不滅
興味にかられて私も新宿をGoogle Street Viewで散策してみたのだが(なおドイツの地図にはこの機能は追加されていない)、クリックして移動・見回すその感覚は現実の時間経過のおまけがついているためにとてもリアルな経験である。しかし不気味。本来私の移動にともなって世界もまた勝手に動いているはずなのに、静止している。写真なのだからあたりまえではある。「世界よとまれ!」と叫んだ人間は歴史の中にいくらでもいるだろう。けれども実際に体験した人間はこれまでいなかった。でもいまや私は、静止した世界をヴァーチャルに体験できるわけである。でもその世界は死んでいる。一方、まったく別の話であるが、死体とその輪切りをを営利目的でさらすことが公然と行われている。
『人体の不思議展』の不思議 http://d.hatena.ne.jp/kinyobi/20080808
あなたや私は死後どこかの町の美術館で輪切りになって立ち尽くすことになるのかもしれない。あるいは、私が交差点で倒れて死ぬ30秒前の交差点の様子がいつか撮影されて、ウェブにいつまでもさらされるかもしれない。私が死んでもそれらはそこに存在し続ける。プライバシーよりもなによりも、どうにも底知れぬ微細な不安が私を脅かす。なにしろ私が死んでしまったらもう、どうしようもないのだから。「やめてくれ」といえないのである。まったく逆の経験であるが、死者が蓄蔵していたその死者自身の写真を廃棄・焼却しなければならなかったときの戸惑い。死者は自分の写真が燃されていることを認知し得ない。あるいは私は、時間をさかのぼって生きていた死者に許可を得ることができない。写真の中の死者はニコニコと笑っている。いまや写真に限らない。事態はより拡大している。死んでしまえばあとは野となれ山となれ、などという単純な人生はもはや保証されていない。いわば、死ぬことができないかもしれないのである!
コンピュータで作成する透視図は,我々をさらに危うい場所に追いやってしまいかねない.現実世界の境界を超え,身体を喪失して視覚のみの存在となった我々は,モデルとして構成された虚構の世界に押し込まれてしまうかもしれない.かつてデザイナーたちが描き出し,映画監督たちが想像し,夢想家たちが探し求め,偽善者たちが差し出してみせた三次元の虚構の世界――それはこれまでも,現在も,また将来も人間が求めてやまない世界である.デカルト流の二元論をはるかに越えた形で,我々の知覚能力は肉体存在から切り離され,身体がとてもついていけないような場所へと送り込まれていったのだ.透視図としての写真の流儀に自らをぴたりと適合させることにより,コンピュータによる透視図は,写真が確信を持ってせつせつと記録してきた三次元の現実世界と虚構の世界とを地続きにしてしまう.コンピュータの作り出す透視図に写真のようなリアルな陰影を与える技術が進んで,画像だけからそれぞれを見分けることが不可能になれば,現実世界と虚構世界との境界を判別したり維持したりすることはますます困難になるだろう.我々はそれと気づかないまま,この境界を超え,幻影のような立場に身をおこうとしているのかもしれない
ウィリアム・J・ミッチェル『リコンフィギュアード・アイ』(伊藤俊治監修・解説/福岡洋一訳),アスキー出版局,1994.
http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic010/itoh/itoh_j.htmlより孫引き