蟹工船
今日のル・モンドに蟹工船のブック・レビューが載ったとかでフランス人の同僚にいろいろ聞かれた。若い世代の日本人が共感してこのところ売れているということや、小林多喜二がどんな風に殺されたのか書いてあるそうである。フランス語の訳本はまだないそうで、仕方がないから英訳でガマンしよう、とかいっていた。ちょうど最近文庫を読んだところだったので、30年代の日本の労働者の状況が酷だったのは知っていたけれど、蟹工船が船舶に関する法律と工場を規制する法律のどちらにも引っかからないような状況だったという詳しい話は知らなかった、というような雑談をした。
それにしても、であるが、戦時の従軍慰安婦の実態や現在のたとえば「週刊実話」のエロ話が世界に知られることをどうしても食い止めたい、知られて世界にバカにされることを恐れるがためにその事実の如何よりも、隠蔽しようという意識が優先する人々は、たとえば今後「蟹工船」はフィクションである、一部の思想的に偏向した人間の作り話である、などとこれまた世界に向けて主張し始めるのだろうか。かくなる人々は隠蔽しているという行動が頭隠して尻隠さずにほかならぬ状況、もっとも侮蔑されるあるいは嘲笑される行動であることに気がついているのだろうか。日本のソトとウチ、鬼は外、福は内、などともはやありえぬ情報の境界、言語の境界を大前提になにかを隠蔽しようとしても世界はすでに繋がっている。