ナショナリズムについて

アイデンティティは難しいものである。自分をアイデンティファイするには、観念ないし言葉を必要とするが、そうした外部的なツールを使うことで一般性が影をさしはじめる。社会的に共有されている定義であるからして確たる固有のアイデンティティとはなりがたくなるからである。そこでアイデンティティを確定するためのアップデート作業はさまざまな戦略があるが(1)より詳細に、より複雑にという方向性と(2)他者のアイデンティティの規定(そのことで自分のアイデンティティを浮き彫りにする)という方向性の二つがあるように思える。(1)はいわばオタクである。あるいはガジェットフェチ。サブカル、マイナーブランド。(2)は親和と排除。線引きを行うことでアイデンティティ境界条件を可視化しようとする。私たち、とあなたたち、というわけだ。私たちが私たちであることをさらに再確認するためにこれまた観念ないし言葉が駆使されるわけなのだが、困ったことにこの運動は決して確たるアイデンティティをその個人に与えるわけではない。線引きを無限後退させてもあくまでも私たちであって私ではないのである。かくしてこの個人におけるアイデンティティの矛盾は次のようなさらに細かい二つの戦略にわかれることになる。(2-1)アイデンティティを複合的なものとする。複数の系をオーバーラップさせることで、組み合わせの複雑さをもってより精緻な確定を行おうとする。(2-2)私とはすなわち社会である、と規定し個人であることをギブアップする。いさぎよいようにも見えるがほとんどの場合、実は個人であることをギブアップしていないのではためいわくなことになる。 
実のところ世界におけるその一人の体積排除効果がアイデンティティなのであるが、人はなかなかそんな単純なことじゃない、と思いたいのである。でも体積排除効果はスゴイことなのだ。知らない土地にいるあなたは、居るという以外のなにものでもないく、そこに確実にある体積を占めているのである。