ル・モンドの『蟹工船』

先日触れたル・モンドの『蟹工船』に関する記事、猫屋さんが翻訳なさっていたのにやっと気がつきました。休暇に入る前にさくっとなさるとはさすが。
→ 蟹工船に関するル・モンド記事翻訳@ね式(世界の読み方)

《この本には、ヒーローも中心的人物もいない》、と出版社にあてた原稿にそえられた手紙に、タケジ・コバヤシは書いている。原稿は登場人物のひとりの以下の一言で始められている:《Allons, partons pour l'enfer !/猫訳;さあ、地獄に向かって旅立とうじゃないか! 》 <・・・>
タケジ・コバヤシが勉学した、オタル(ホッカイドウ)商科大学が開催する、作家の死後75年を記念するエッセイ・コンクールの本年優勝者は、不安定労働市場にもまれた25歳の若い女性で、こう書いている:『蟹工船の男たちは奴隷のように働いていたが、闘争を共有した。今日、わたしたちはひとりずつ見えない手によって“転落させられ/descendus”、わたしたちは隣人を闘争の同士としてではなく、ライバルとして見ている。』

ワンルームマンション的である。というかワンルームマンションそのものか。まったく同じ内部構造の小さな部屋が何十も三次元的にスタックしている状況。かくなる構造における個という自己認識の確証への飢餓は、その確証を強迫的に自己要請することになる。したがって仲間を探すという行為は同時にあらゆる理由を根拠に仲間であることを否定するという矛盾した形でドライブする。あるいは仲間ではないということを確認し自己排除によって確証=析出するために仲間を探す。肯定した瞬間に否定が要請されるのであるから、ワンルームマンションは防護壁であると共に監獄である。いわば

その時の自分は、個人としてとして充足自由にあるわけではない。自分は他者との関係比較で自動反射的に存在が規定され続ける。そんな緊密な相互世間にあるかぎり、問題は<私>の充足自由よりも、自分と他者との境目となる。「あなたのいるところだけなにもない」id:hizzz:20080619#p1のように、他者のいう「あなた」が自分となるし、自分が「あなた」とイメージすることが「あなた」にとっての自己となる。ややこしいぐーるぐるな関係は、我々=「みんな」という集合に繋がり、それからすれば自分はその「みんな」の1チップとなる。みんなの1チップ=イメージされた「あなた」となったがみんなとの違いを感じるイメージされてない自分は、みんなの個人=イメージ規定されてる外見<個>と自分の中の人=隠れている未既定部分の中身<私>と、表面と内面の幅をもつ。イメージを返されて外見を意識しはじめて、初めて自分のそれとは違う内面が判る。そしてイメージをお互いに交換&調整しあってセルフイメージを模っていく。
自由のコンテクスト - 女性の装い方@ネタのタネ

関連して。隣人が敵である根拠はいくらでも探すことができる。たとえばレーニンの時代から繰り返されてきたモンダイ。

例えば高校中退や中卒などで、他に選択肢もなく、様々な事情でいわゆる日雇いなどフリーターにならざるを得ない人たちは、この日本において一五〜二〇年前、年間十数万〜一〇〇万人はいました(『THE中退〜?学校離れ?百万人の生き方ガイド』朝日新聞社/一九九四年)。そういう人たちこそが本来、中心になってフリーター・ユニオンを結成してもいいはずなんですが、なぜフリーター・ユニオンをやっている人たちは、少なくとも差別されている高校中退者や中卒者に比べれば圧倒的に仕事を選べる立場にあるにもかかわらず、大卒者(下手したら大学院まで行った)いわゆる「インテリ左翼」さんたちが中心なのでしょうか?
そのことが以前から不思議な現象でなりません。そして、ついでに言えば、そういった人たちの「仲良しごっこ」の範疇でしか、そういった情報は共有されてはおらず、明日食う寝る場がなく悲観して自殺へと至るような、もっとも切迫した必要な人のもとには届いていないという、この矛盾はいかに…。
昨今、巷をにぎわしている「フリーター労組」という今更のような流行(現象)に対して、私の周りの人たち(高齢化した低学歴フリーター約二〇年選手)が口をそろえて言っていることを総括すると、「高学歴のインテリ左翼の気まぐれにすぎない」と冷ややかです。
紙上討論/フリーター運動は「高学歴左翼の気まぐれ」?

ネオリベ的観念やマルクスという単語の前に「持たざる者」は沈黙するしかありません。社会構造、という大きな敵と戦うなら味方は多いほうがいい。味方を増やすには、立場の違うそれぞれがエゴをある程度抑えないといけないでしょう。
私にはとても尊敬している先生がいますが、その方は若者の連帯を「愛と自律」という言葉を使って諭されていました。「持たざる者」の側のエゴとして、私が共通の課題だと思うのは劣等感と被害者意識です。
「『負け組』の中でもさらに底辺にいるわたしたち」というネガティブさです。『どうせスポイルされるだけ』、『大学に行けるだけの余裕と知識があるのに、なぜ状況を変えられないのか』いう表現にも見られるような、自分たちが何をやっても無駄というようなネガティブな意識です。そこからでも、つながれる何かを見つける方法はないかという姿勢が、「持たざる者」には必要だと思います。
フリーター運動は「高学歴インテリ左翼の気まぐれ」?3

「どれだけ持っていないか」という比較は「どれだけ持っているか」と相同なる競争である。それよりも今この自分が世界に存在してしまっているという不可逆性こそ紐帯のコアであると私は思うのだか。不可逆的に存在して生きてしまっているということの喜びと悲しみ、共有しているのはこの事実である。