黙示の共謀

黙示というコミュニケーションのあり方はいわゆる「空気」に似ている。語ることなくしかしながら環境にかたらせる/りかいするというコミュニケーションであり、語る側にも理解する側にもなんらかの前提条件が共有され環境醸成がノンバーバルに行われることがコミュニケーション成立の鍵となる。極端な例で言えば、長年連れ添った夫婦。「おい」と夫が言った次の瞬間に妻がお茶の用意を始めるのが”黙示”である。反対語は明示。例にならっていえば、「私はお茶が飲みたいので、よかったらいれてくれませんか」。
黙示コミュニケーションは外部から見ればその成立過程がわかりにくい。ノンバーバルな情報と環境の文脈に基づいてコミュニケーションが行われるため、どの部分をコミュニケーションの要素としてピックアップしてよいか選択の基準が不明であり、部外者には理解できないからである。それでもなお黙示のコミュニケーションを読み解こうとする場合、とくにそれが成立し(給油ポットに向かって妻が動き始める)その結果であるイベント(お茶がはいる)が生じる前に(「おい」の時点)で解釈しようとすると多分に恣意性が混入する。「おい」は風呂に入りたいかもしれないし、お茶ではなく冷やかもしれないのである。はたまた実は「隣のスズキさんが回覧板を持ってきたから見ておいて」かもしれない。「おい」が通じなかったときは黙示のコミュニケーションは失敗である。「おい」ですまそうとした夫はわるいが、それだけでなにかを解釈しようとした妻もまたダメだ。かくして夫婦仲に秋風が吹く。などというまでもなくその夫婦の外部からの解釈はさらに輪をかけてあまたに可能であり、はっきりいえばなんでもアリ。
では、”黙示の共謀”とはいったいなにか。たとえば上記の夫婦が過激派の経歴をもつ有名な運動家夫婦であったとする。「おい」と夫が発した言葉は、外部からの恣意的な解釈によって「明日迫撃砲千代田区一番地を攻撃」と読み解かれる可能性もある。かくなる解釈をもって、「おい」は共謀となる。「黙示の共謀」であればさらに極端だ。彼らが夫婦であるということがすでに「黙示の共謀」であるとも解釈できるのである。
極端な例で考えてみた。というのもそうした非明示的な断罪を可能にする法律*1来週火曜日に日本で成立するらしいからである。むろん、このようにウェブでくだらぬことを書いているわれわれすべて、あるいは無断リンクをいくらでも張れるこの世界でその非明示的な内容とネットワークを「共謀」として解釈することも可能なのを忘れてはいけない。

*1:犯罪の国際化及び組織化並びに情報処理の高度化に対処するための刑法等の一部を改正する法律案。詳しくはこちらの”共謀罪”を参照に