大学の本懐

教授: 教えを授ける
Professor: profess とは「ハッキリと言う、公言する」

大学理学部の先生がはっきりとわかりやすく教えるのは、本来の職業として当たり前のことである。しかしながら、大学は目下研究開発の場所としての役割に重点がおかれている。特に旧帝国大学ではそうだ。大まかには大学が”科学技術立国”の最前線に動員されつつあり、国という大企業の研究開発部署になったといえる*1。教授は本来の意味での教授ではなくなり、Professする必要もなくなった。
かくして本来の教授の仕事は、「科学技術コミュニケーター」というヘンテコな名前の新たな職業に課せられることになったらしい。タテマエの言葉とホンネの言葉が異様なまでに乖離し(i.e."美しい国")、その対偶で醜悪なホンネが徘徊する状況(c.f.最近のkechackさんの記事)では、大学もまたその本懐を喪失し、存在の意味が変容するのもまた時代の趨勢なのかもしれない。しかし、下記の引用にあるような「科学技術コミュニケーター」こそ本物の教授だということは、記憶にとどめておいてもいいのではないか*2

実はほとんどの人にとって、重要なのは「最先端の科学」ではなく「古き佳き科学」なのだ。
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「科学技術コミュニケーター」というのは、後者の科学者の呼び名のようであるが、もう少し短くできないだろうか、例えば「科究者」と「科教者」とか。
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そう考えていけば、「まだわかっていないことを研いで究める」人々だけではなく、「もうわかっていることがどうやってわかったのかを、わかっていない人々に伝える」人々もまた立派な「科学者」ではないだろうか。
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科学は面白くて役に立つ。しかし手がかかるのも事実だ。「なぜなに君」たちをきちんと正面から説得していては授業は進まない。いきおい授業は一方通行になる。ブロードキャスティングでなくコミュニケーションというのは、本当に手間がかかるのだ。このことはさらにプロとしての科教者を正当化するのではないか

科究者と科教者 - 書評 - はじめよう!科学技術コミュニケーション
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50997853.html

以上、書評対象の本の著者が引用した部分、よいまとめになっているので孫引き(Dan the Real Science CommunicatorCommentsAdd Star)。

米国の話だが、大学で研究を中心に活躍する教授と、教育を中心に活躍する教授はかなりはっきりとした分業になっている。前者の教育に携わる時間はかなり少ない。後者は後者でとてもリスペクトされる。教えるという行為も又工夫と創造、説明するための教養とタレントが必要だからProfessする人としてリスペクトされるわけだ。ドイツではどちらかといえば日本に近い状況だ。大学を研究開発の最前線に動員するためのさまざまな試みが行われ、大学が本来の仕事を見失いつつある局面によく出くわす。

*1:戦時体制下の大学もこんな感じだったのだろう。

*2:ついでだが、日本の某左翼系の雑誌を眺めていたら、執筆者がそろって「XX大学教員」としてたんで、妙な平等主義でへんだなあ、と思った。