姉妹型会話技術

私は女性同士の会話がとても気になってしまう。特に姉と妹の会話(註・私の姉と妹、ということではなく、姉や妹、という立場の人同士の会話一般ことである)には恥ずかしげもなく興味をあらわにしてしまう。姉と妹の会話は話の筋がきわめて奔放でトピックがあるようなないような、突発的にここからあちらへ、と話題の内容が変化するのだが、互いにそのことはどうやら了解されていてようでいて半ば無意識的に会話が成立するらしい。安楽椅子に座って無意識を語る患者のようでもある。傍でその会話を聞くともなく眺めている私は、錯綜する話題にすっかり翻弄されて疲労感で一杯になるが、ゲリラ戦のごとき姉妹会話は延々と疲れも知らずに続いていく。かくして私はワイヤレスのケーブルが彼女達の間を繋いでいるのか、などと妄想を巡らせはじめる。トッピックを追うのはどうやらムダだと悟り始め、泡沫のように浮いては流れていくトッピックが現れる瞬間を楽しみ、消えていくのを惜しまないようになる。

姉妹で育った女性との会話は、女性の側がそのことを意識していない限り姉妹型の会話になる。このところどうしたわけだか姉妹型の会話をする女性としゃべる機会が多い。私もかくして姉妹型の会話を習得しつつある。脳の全く別の部分を駆使しているような気がする。普段使っていない筋肉をトレーニングするような気分だ。以前この姉妹型会話について、私自身の姉と喋ったことがある。兄弟に女がいない私の姉は、「私はあの会話ができない」と言っていた。女性同士の間では、それが決定的な欠落となる、のだそうだ。とはいえ、学べばできるような気が今の私にはしないでもない。先日3時間近く、数年ぶりに会った大学時代の後輩の女性と(彼女は見事に姉妹型である)昼下がりのニースのレストランでダラダラおしゃべりしていた。泡沫に身を任せて喋るのは、自由への不安に似たところがなくもない。論理的な構造は存在しない。落下の重力に従えばそこには自由があるが、落下の開始には身を捨ててしまう諦めのようなものが必要な気がする。

...というような話をとある人に話したら、水村美苗の「私小説」を薦められた。姉妹の話、なのだそうである。ちなみに知らなかったが水村美苗岩井克人の奥さんなのだそうだ。強烈カップルだなあ。すると岩井克人は姉妹型会話の達人でもあるのだろうか。柄谷行人との対談集は実に放埓なトッピックの紆余曲折だった。実は姉妹型から由来したのではないか、などと想像し始める。