社会的謝意から社会的要請へ

先日紛争地帯に赴いた三人はバカである、といった。このことを書いてから「バカであること」について考えている。いや、じつはこの一年ほど、そのことを考えている。というのも、三人と似たような仕事をしている親しい知人に向かって、「バカだ」とちょうど一年ほど前に放言して、大喧嘩になったからである。

この知人の場合は、NGOではなく国際公務員なので立場は少々違う。とはいえ、貧困の中に分け入り、そこにいる人の生を豊かにしよう、助けよう、としている部分は共通している。戦争ではないが極限の貧困の環境では病気にしろ犯罪にしろ、危険と背中合わせの環境だ。件の人質であれ、私の知人であれ、わざわざ危険なところに出かけていくことには変わりない。そしていずれも私にとってはバカである。

ここでの「バカ」かどうかという私の判断は、仕事が社会的に意味あるかどうか、尊敬すべきかどうかということは、全く関係がない。単に自分のことを省みないのはバカだ、ということなのだ。

知人は猛烈に反論しながらしまいには、おまえもバカだ、といいはじめ、結局罵りあいの喧嘩になった。知人が私をバカ呼ばわりするもは次のような理由である。抽象的な目標に向かって仕事に没頭する人間も、危険な地帯で人を救う仕事をすることと同様にバカだ、というのだ。この一年間そのことを時々思い出して、私もやっぱりバカなのかな、と思ったりする。

こうした経緯も合わせて、今のイラクに赴くこと、をめぐっての議論はとても気になっている。武田徹さんの13日付オンライン日記の次の一節が今のところ、まさにこの点をついている。

死の危険を賭してでもイラクに行く。たとえ自分が死んでも誰かのためになりたい。報道を通じて世界に真実を伝えたい。あくまでも建前かもしれないが、そんなことを悲壮な自分の信条として躊躇なく語る人が増えているように感じるし、世間一般もそれをどこかで肯定する雰囲気があるように思う。
福田官房長官は「時代が変わった」といったが、まさに時代は変わったのだろう。変わったというよりも戻ったと言うべきかも知れない。大儀のためには死んでもいいと思う若者と、彼らの死を犠牲としても自衛隊撤退なしのスジに殉じるべきと言う政府は案外と近い場所に位置している。
オンライン日記

社会的に意味があることをしているのだから尊重すべきだし、ありがたい存在である、という考え方もあるだろう。でも、この考え方、意味付けかたは、例えば神風特攻隊に志願する人間を社会は尊重しなくてはいけない、という考え方と同様である。社会的に意味がある行為なのだから、その人間をアプリシエートすべきである、というカタである。

私思うに、この社会的な謝意が逆のベクトルとなって、社会的な要請となるには、あまり力を要しない。例えば、義務教育におけるボランティアの義務化などがそれだ。ボランティアの義務化は明示的な形式化だが、それよりもなお始末におえないのが、暗黙の了解としての形式だ。社会の役に立つならば命をもを賭けよ、という無言の圧力としての社会的な要請である。だから私は、やはり「バカだ」と言う。

いつぞや書いたことだが、もし自分が太平洋戦争下の日本にいたとしたら、ある種の興奮と共に特攻隊に志願するような部分が自分自身のなかにはある。それはバカである、と私は自分にいいきかせるつもりで言う。社会奉仕するにしろ、特攻隊員にしろ、黙って彼らをありがたく感じるのは結構だ。でもそれを公言して同意をもとめるなり、議論の根拠としていると、それはたちまち社会的な要請へと反転する面がある。このことを常に意識している必要があると思う。