否定について

以下の文章を読んでいて少なからずはっとしたので、引用する。

日本の学生運動各派の共通した考え方は、議会を通じて、つまり、話し合いや選挙活動を通じて多数を獲得することによって政権を取ることはできないと考えていました。

この部分、特に太字部分にそういえばと私ははっとする。そういえば、似たような気分の文章を最近眼にした。たとえば、これや、これ。まっとうだー、と私も思う。でもそこに決定的に欠落しているなにかを私は感じる。ひとことでいえば、共和制というシステムに対する絶対的不信、絶対的な欠落感。代議制の崩壊、一方でせまりくる現実を前に話し合いは無駄だ。そういうことだ。あせっている。話合いと村寄りをどこで分断するか。そういうことなのか。そんなことも私は考える。

ところでこの数十年前の世代の考え方と現在に私は共通点を見る一方で、決定的に違うのは次の部分だ。

実力、つまり暴力によってしか権力は獲得できない、革命はできないと考えていました。議会を通じて権力を取ろうという考え方を日和見主義と考えていました。

なお私はこれまで、全共闘の代表選手ともいえる今井澄さんの文章から引用している。(文章へのリンク)。グローバリゼーションがあまねく浸潤した状況で、”権力の獲得”でなにかが変わるなんて思っている人間はまずいないだろう。革命でなにがかわる?という絶望だ。だから余計にテロリズムなのだしイラク人が自爆して昨日も60人を巻き添えにした。別に自爆でなくてもいい。そしてイラクに限ったことではない。戦略的に正しいのかはさておいて・・・なんて私はそこまで冷淡になれないのだが・・・でもたぶん、ポイントはついにボトムラインが遂にはそこまで下がっているということなのではないか。そしてたとえばそのボトムラインは、対社会な自爆かもしれないし、逆に積極的に社会を自分から排除するひきこもりなのかもしれない。あるのはなんにしろ大文字の「否定」なのである*1

*1:ひきこもりはテロか、と批判する人がでてきそうなのであらかじめいっておくと、否定という意味からいえばそうですよ、と私はいいたい。いいか悪いか、は別に。そして、こうしてイラク人の自爆攻撃と比較する軽さを批判するひとがいるかもしれない。でもひきこもりにいたるまでおいつめられる人間と、自爆攻撃する人間の心性のおいつめられかたのどこに差があるのか、とも私は考えてしまう