ルソーの一般意思と場

昨夜ししゃも、糠漬け、長ネギ味噌汁、納豆などの晩飯を用意し、ぼそぼそと食べながら「思想地図」フォーラムの録音を1時間半ほど聞いていたのだけど(実にジャパンな気分になった)、ルソーの一般意思を巡って少々議論になっていた。この点、ながら聞きで思っただけなのでもうしわけないのだが(そもそもフォーラムの内容は国家とナショナリズムということだし)、あー、日本では国家と個人が遠くなりすぎていてルソーのいうような一般意思の直感的把握ができないのかもなあ、と思った。私思うに、一般意思とは広場である。あるいは2チャンネル的なものこそ一般意思といえるのではないか(まあ、だからルソー的だと少なくとも日本ではダメだなと思ったりする。解釈には役に立つけれど)。以下ずらずら引用。

国家というものはどうつくられるべきか、ということをルソーは考えます。
単独で、孤立した個人が集まって作る国家はどういうものが望ましいか。
それは、ひとりひとりが自己の利益を脇に置いて、共同体全体の利益を考えるような、そういう意識をよりどころに結びついたような共同体である。

ひとりひとりの利益を追求するのが「特殊意志」
「特殊意志」を単純に加算していったのが「全体意志」
「一般意志」というのは、社会契約のもとに集まった、共同体の意志です。

そこでは、各個人の意志は「一般意志」にすっぽりと呑みこまれていきます。
ルソーは『社会契約論』でこう言っています。(引用は.「社会契約論」 『世界の名著 36 ルソー』所収)

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この社会契約のあらゆる条項は、よく理解されるならば、ただ一つの条項に帰着する。すなわち、各構成員は、自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡すということである。それはなぜかというと、まず第一に各人はいっさいを譲り渡すので、万人にとって条件は平等となるからであり、条件が万人に平等であるなら、だれも他人の条件の負担を重くすることに関心をいだかないからである。

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重要なのは、「自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡す」という点。
個人は社会契約を結ぶ時点で「特殊意志」を捨て、「一般意志」に委ねるのです。

つまり、個人は個人の自由を手放し、共同体の一員となることによって初めて真に自由になれる、とルソーは考えたんです。「特殊意志」を捨てて「一般意志」のもとにみずからを従属させることで。そうすることで、人間は自己のもつ最高の可能性が発揮され、最高の自由を手に入れることができる、と。

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1億二千万人の投票結果はもっとも多かった特殊意思に過ぎない。
だからある程度の人数にたいしてその結果は利にならない。
しかし一般意思とは全員において利である。
全員にとって利って難しいですねえ。
そしてルソーさんはこうも言ってます。
たとえ全国民に反対されたとしても、一般意思を理解(発見)できるものならば、独裁者であってもそれで良い。
なぜなら個人は自分の利をいつも正確に理解(発見)できるとは限らないから。

つまり一般意思(全国民の共通に利害)を見極めることができる人間が納めるなら、国民の意見を一切聞かない独裁者でも良い国になるってことですね。
私も全くもってそうやと思いますが、それと同時にそんな人間がいるとは思えないし、いたとしても一般意思が理解できず特殊意思を優先したいエゴイストにクーデターかまされそうです。一般意思であるならばそのエゴイストにとっても利であるはずなんですけどね。本人にとって良いことを本人が良いと感じるかどうかは別問題。親と子の関係に似てますね。

ルソーの一般意思ってなんですか
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3166441.html

以下はほぼおおやにきにあった「社会契約論」引用の抜粋(ルソーの部分はイタリクス)

実際、各個人は、人間としては、一つの特殊意思をもち、それは彼が市民としてもっている一般意思に反する、あるいは、それと異なるものである。彼の特殊な利益は、公共の利益とは全く違ったふうに彼に話しかけることもある。(35)

国家をつくった目的、つまり公共の幸福にしたがって、国家のもろもろの力を指導できるのは、一般意思だけだ(……)なぜなら、個々人の利害の対立が社会の設立を必要としたとすれば、その成立を可能なものとしたのは、この同じ個々人の利益の一致だからだ。(…)社会は、もっぱらこの共通の利害にもとづいて、治められなければならぬのである。(42)

一般意思は、つねに正しく、つねに公けの利益を目ざす(…)人民の決議が、つねに同一の正しさをもつ、ということにはならない(…)人は、つねに自分の幸福をのぞむものだが、つねに幸福を見わけることができるわけではない。人民は、腐敗させられることは決してないが、ときには欺かれることがある。(46〜7)

もちろん投票によって「特殊意思から、相殺しあう過不足をのぞくと、相違の総和として、一般意思がのこる」(47)ことが期待できなくはないが、それは「人民が十分に情報をもって審議するとき、もし市民がお互いに意思を少しも伝えあわないなら」(同)、つまり個々の市民のそのままの利害が投票行動等に反映され、徒党や利益集団や政党のような部分集団が形成されない場合に限られる。「だから、一般意思が十分に表明されるためには、国家のうちに部分的社会が存在せず、各々の市民が自分自身の意見だけをいうことが重要である」(48)。このような条件のないところでは、投票の結果が一般意思の反映になっているという保障は、まったくない。
別の言い方をすれば、ルソーによれば「意思を一般的なものにするのは、投票の数よりもむしろ、投票を一致させる共通の利害であることが、理解されなければならない」(51)。*1

人民の代議士は、だから一般意思の代表者ではないし、代表者たりえない。(…)イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう。その自由な短い期間に、彼らが自由をどう使っているかをみれば、自由を失うのも当然である。(133)

市民はすべての法律、彼が反対したにも関わらず通過した法律にさえ(…)同意しているのだ。国家のすべての構成員の不変の意思が、一般意思であり、この一般意思によってこそ、彼らは市民となり、自由になるのである。ある法が人民の集会に提出されるとき、人民に問われていることは、正確には、彼らが提案を可決するか、否決するかということではなくて、それが人民の意思、すなわち、一般意思に一致しているかいなか、ということである。(……)わたしの意見に反対の意見がかつ時には、それは、わたしが間違っていたこと、わたしが一般意思だと思っていたものが、じつはそうではなかった、ということを証明しているにすぎない。(149〜50)*2

「一般意思」@ おおやにき 2007年5月14日
http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000423.html

ルソーの『社会契約論』の全体を貫く精神は、すべての人間に「一般意志」が備わっているという考え方だと思う。「意志」とは個人がなにかを求めて行動を起こすことであるという。この意志には、「個別意志」と「一般意志」があり、一般意志は個人的な欲求や事情を越えたところにあり、個々人が自分勝手になにかを目指して行動することは一般意志とはいわず個人意志であるというわけだ。

この一般意志のおかげで人と人がつながり、共同生活を営み、社会をつくり、国家をつくり、社会や国家を前へと推し進めていくとルソーは考え、「一般意志が人間の社会生活の根拠をなす」という。「本能」「肉体の衝動」「欲望」「自分の好み」という個別意志の対岸にあるのが「正義」「道徳性」「義務の声」「権利」「理性」という一般意志である。
(…)
地域SNSのイベントやオフ会で参加している人たちと交流すると、満面の笑顔で応対してくれる人の多さという点が他の集まりではあまり感じられない特徴である。少し深く語り合ってみると、その人たちが自分たちの利己的欲求だけではなく、参加している「場」に対する共通の意識を持っていることに気づく。多くが他のメンバーに対する扶助意識が強く、喜んでもらうことに歓びを感じると言う。「支え合う」という意欲が高いひとたちで満たされた「場への貢献」という感覚は、実際に顔を合わせている時間だけでなく、その後は地域SNSというバーチャル空間で更に醸成されていく傾向がある。個人の意志でありながら一個人の私的な関心を超えて、みんなでどう助け合ってしあわせに生きていくか、を考えて行動に起こす一般意志が育つのである。
(…)
ルソーは、一般意志の下に人びとが結びつき、そのとき互いの間に交わされるのが「社会契約」であるという。社会契約は「自由」と「平等」というふたつの原理で支えられている。18世紀のフランスは絶対王政下にあり人々の自由な活動を許すような社会ではなかった。封建制や王制を揺るがす自由への希求は、社会に不安や混乱をもたらしたが、ルソーはそれらも含めて自由こそが社会を豊かにすることを説く。一般意志の下の自由による社会契約が、ある秩序を持ったカオス(混沌)を生み出し、豊かさを共有することを示したのである。

自然状態にあって人間はけっして平等ではない。むしろ肉体的・精神的な不平等につきまとわれている。人間社会に平等の原理をもたらすには、自然を超えゆく道徳観念や法観念を行き渡らせることが必要である。それを可能にするのが個々人の保有する一般意志の存在である。平等の原理についても実現の途上にあるというのがルソーの歴史認識であったが、その困難さも同時に理解していた。もうお分かりだろうが、地域SNSには、ルソーの考えたものに近い自由も平等も存在している。
地域SNSとルソーの『社会契約論』@こたつの戯言 2008年01月20日(日)
http://hyocom.jp/blog/blog.php?key=33739

上でいう場、すなわち「意思を一般的なものにするのは、投票の数よりもむしろ、投票を一致させる共通の利害である」。特殊意思の間にやりとりがなかったら特殊意思は統合しようがないわけで、結局場が必要となる。たとえば投票は情報量としては加算的なんだけど、情報に交通の場が与えられると引き算、掛け算、割り算が加わる。具体的には、広場に人が集まってごちゃごちゃと議論したり、一人がたって演説をして、そりゃまちがっている、とかそうだ、とか聴衆が叫んだりしているうちに、なんとなくその場の雰囲気ができていく、みたいなものである。一般意思というのはだからインターアクションの場がなければありえない。問題はこうした場と国家の関係だ。国家に対する考え方というのがルソー的にはとても身近なものになる。フランス的な国に対する考え方がこれだろう。自分ひとりが国家に対してとてもみじかで、だから批判したりできる。あるいは、フランス人が投票のためにわざわざ国までえんやこらと車に相乗りして帰る、というのはこの身近さなのだ。あるいは車を燃したらどうにかなる、とか思ったりするのかも。広場の延長。遠すぎたら批判しようとも思わないだろう。

まあ、だから

白井:ルソーは一般意思と個別意思のずれを違うとこに移していく。そしてその結果、現実に存在している中間団体に対して否といっている*3。結局、そのズレは現実の矛盾にうつっていく。ルソーの矛盾は特殊な形で現実に介入するようになっていく。
前近代において、官僚になっていたのはマイノリティや宦官。社会の中の有力者はダメ(一極集中するから)。しかし、近代国家は万人に国家権力へのアクセス可能になった。それは大変危険。
なぜ、それは可能だったかというと、私たちは去勢されている、つまり特殊意志を持つことを禁じられているから。
契約論のみでナショナリズムは成り立たない。ルソーは偶像的なものなしで、「一般意思」を立たせる。日本という国土において天皇をかませないと「一般意思」は出てこない。
思想地図シンポジウムのレポート
http://d.hatena.ne.jp/tmu_g-kai/20080123

ということなのだろうな、と思う。というわけで日本人は去勢されているのですよ。などと思いながらジャパニーズフード、ししゃもを齧ったのだった。

*1:引用者註:「思想地図」東発言に該当→”国家が本当に最終審級か?ルソーは私が考えていることがダイレクトに一般意思とつながってくる。つまり、誰が構成員か決まれば、あとは問題なし。だから、結局メンバーシップの問題に還元される。(…)メンバーシップを1/0でわける必要ない。サークルにおける幽霊部員とか。でもルソーの一般意思はメンバーシップの問題に還元される。自己矛盾かかえているけれど、これでいいのか?”

*2:このあたり最近の生物学ではcollective effectってことで関心を呼んでいる分野に関係ありそうですな。

*3:引用者註:「人民の代議士は、だから一般意思の代表者ではないし、代表者たりえない。」