近況


ー 無珍先生はかなり言葉をしゃべるようになってきた。ドイツ語と日本語のごたまぜ。単語をふたつならべてしゃべる感じである。それでも結構なコミュニケーションがとれるので、なかなか楽しい。ただ、朝まだこちらが寝ているときにダイビングで飛び乗ってきて「パパ起きた、パパ起きた」と騒ぐのは心臓がでんぐりがえるので勘弁してほしい思う。散歩の帰り道には家の近くにあるジェラート屋の前をとおるかなりて手前から「アイス、アイス、アイス」と催促する。一番少量のセットである三つほどの玉のアイスクリームのうちひとつを自分で選び3ユーロで買って、手をべたべたにしながら自分でもって家に戻り、ご満悦でアイスクリームを食べる。アイスクリームはあまり好きではなかったが、付き合って食べているうちになんとなく好きになってきた。

ー 6時半頃家にかえってからのあそびの催促はたいへんなもので、寝てしまう9時過ぎまで私はなにもできない。10時頃まであかるいので、先日は帰宅してからエネルギーありあまる無珍先生をつれて近くの川でボート乗りにいった。操舵のハンドルを扱いたがって大変なものだった。あきらめてまかせると、まっすぐ他の船にぶつかる方向に行こうとするので、制止するのがこれまた大変である。

ー 低線量被曝の健康に対する影響に関して、ICRPが参照にするような「定説」(すなわち日本政府が参照にするような「定説」)はいったいいかにして決まったのか、ということで、UNSCEAR(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)の報告書や関連する報告書をいくつかテーマを絞って読んでみた。この委員会やWHOの報告書が、いわばゴールドスタンダードなのであるが、これらふたつの機関で委員がオーバーラップしているし、そもそも委員会自体数十人の規模である。論文の選び方が雑だな、と思った。書物になっていない学会発表なども、例えば「広島長崎の完璧な調査を鑑みれば、チェルノブイリ事故のこの線量で健康に対する影響がみられるはずがない」という自説(?)の補強のために引用する一方、ウクライナベラルーシの学者の調査論文を統計力がない(サンプル数が少ない)といった理由で「影響がない」としてしまう。これで疫学的にはいいのかもしらんが、切り捨てた微妙な部分はどうなるのか、と思う。使っている統計もなんかクラッシクだしなあ。結局、いまだに「低線量被曝における健康被害はよくわからない」となってしまうのは、上のような雑駁な国連機関による結論があるからではないか、と思った。比較すると、BEIR(米国科学アカデミー米国研究審議会の電離放射線の生物学的影響に関する委員会)の方が論文を網羅的に調べている。

ー いずれにしろ、この話は書類的に膨大な量にのぼってしまって、ここでざらざらと書けてしまうようなものではない。本来それこそ日本の原子力安全委員会は、独自の論文レビュー総ざらいをすべきではないかと思う。レビューもやっているみたいなんだけど、(ウェブで探すとあったりする)総合的な結論をださない。論文をずらずらとならべてまとめて、おわり。なにもなかったときならそれでも通ったかもしれないが、いまこそきちっとした見解がもとめられているのに、なにをやっているのだか。今の日本の状態で今後10年の公衆衛生政策いかに展開するのかラジカルな変化が必要なはずであるが、まあ、「なにもおこらない」ことにしてなにか起こったとしても「想定外」なのだろう。もしそうなのだとしたら日本の人はまじめだ、といわれたりするけれども(あるいはそう日本の人が自分で思っているだろう)、実に内容のない真面目さなのではないか。真摯であることを差し置いて真面目であることもできる、という好例になってしまう。

ー 福島県放射線健康リスク管理アドバイザーである山下某大学教授が住民に向かって5月3日に次のように言っている。

先ほどの質問で「二本松は危険だから逃げろ」というのがありましたがとんでもない話です。今のレベルは全く心配ありません。その保証を、私の首をかけろというならかけますが、私は子どもたちよりも早く死にます。
もし文科省が私を喚問するのであれば、私はそれに行かなければならないと思います。ただ伝えたい根拠は理論ではありません。現実です。皆さん、現実、ここに住んでいる。ここに住み続けなければなりません。広島、長崎もそうでした。チェルノブイリも550万人もそういう状況で生活しています。そういう中で、明らかな病気は、事故直後のヨウ素による子どもの甲状腺がんのみでした。私はその現実を持って皆様にお話をしています。ですから国の指針が出た段階では国の指針に従うと、国民の義務だと思いますからそのような内容でしかお答えできません。

http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1037

放射線被爆に耐えることは国の指針であり、国民の義務なのだそうである。教育、納税、勤労に加えて、被爆。このような発想の人間を前に絶句していてもしかたがないので、次の文章も引用しておこうと思う。

r現在は大いなるコンフォーミズム(体制順応主義)の時代である。西欧文明の歴史において、これほど絶対的なコンフォーミズムの時期はまずほかにないだろう。s精神、欲望、信仰、感情、直観、意志、経験――そのどれもがわれわれの社会の営みと関連していない。そのかわり、失敗した、罪をおかしたと言うと、われわれはそれを無意識のうちに非合理な衝動のせいにしている。
 (しかしながら)t人間を全体的な存在としてとらえるわれわれの意識――つまり意識的な記憶――は徹底的に粉砕されたので、われわれはいかにして公の法人組織である当局をしてその行動の責任をとらせるかについて、何の考えももてない。(こんなことではおそらく)u詭弁と偽善の現代文明は、これからの10年間でその真価を問われるだろう。(そうでないのなら、せめて)v文明の真髄はスピードではなく、考えることに向かわなければならない。
 (これまでは)w現代の解決策は、憲法と法律によって基準を設定することだった。xだが、憲法や法律は、われわれには容認しがたいほどに、それを管理する人の意志に支配される。(そこで、これからは)y社会全体として必要なのは、道徳を多様化することではなく、それを抽象化することである。zわれわれはいま、われわれ自身の過ちのなかにいるのだ。

松岡正剛の千夜千冊 第四百九十三夜【0493】2002年03月08日『官僚国家の崩壊』1997 JR Saul)

憲法や法律は、われわれには容認しがたいほどに、それを管理する人の意志に支配される」。憲法、法律に加えて科学技術もそうだ。「それを管理する人の意志に」容認しがたいほどに支配される。一例が医師であるはずの人間の説く義務である。

道徳を抽象化する、とはこの点においてなにを考えたらよいのだろうか。原発事故による被爆生命倫理の問題に直結している。被爆の結果、身体が損傷を受けるのは無論のことであるが、かくなるステージにいたったコンフォーミズム(国民の義務)を鑑みるとどうやらそれどころではないように思える。