文学の普遍性
中国人の共同研究者がいった。
「まずはソーシャライズ、そのあとでビジネス、まさに東アジアの私達の社会ですね。やっぱりあなたは東アジアの人だ」
私は答える。
「ありがとう。でも東アジアだけじゃないんだよ。どこだってそうだ。僕らは我々を東アジアとして規定する必要はまったくない。でなければ文学の普遍性なんてありえないでしょ。ぼくらはまず飲んで笑う。話はそれからだ」。
返事はこなかった。
でもたぶん、日本文化が世界の人々の琴線をゆさゆさとゆさぶるなにかは文化の普遍性においてし解釈しようがない。中華思想ではないのである。普遍、はスピノザの全く理解し難い汎神的ななにかだ。マクドナルドをうりつけるアメリカ人も、キッチュをキッチュとして排除するフランス人も理解しない。普遍性は辺境においてはじめてアジテーションとなるのである。私は辺境そのものだ。たぶん今の日本がそうでない、と主張する以上に。
かくして極東のかなたのわたしのむすこが暮らす地で、「デモはテロ」と公然と言い放つ政府が闇を解き放つかのように急激に育ち始めている。私は自分にいいきかせる、観よ、記録せよ、この愚昧なる繰り返されきた過ちを。私はそれをもはや許す。これはなにか、地理政治をあえて無視してきた歴史の普遍化の運命なのである。そこに私の悲しいほどの人生の混沌がなにがしかの意味を持ち得ることはないだろう。サイード。
そうなるであろう、悲劇の現場を普遍的な文学性をもって記録しながら悔いながら母を運命としてもたぬ私の息子がいつかかれそれを読むことができる日にむかって私は以上、かきつける。