業についてなど

すごい人が出現していたんで引用。セミプロの科学哲学者だそうである。

優生学がもし学問的に正当なものとして認められるようになっていたとしても、ホロコーストは批判されなければならないんです。」というあなたの主張は私には到底認めることができません。もし仮に今、優生学が正当であって全人類の繁栄のためには倫理に目をつむってでもホロコーストが不可欠であるという結論が出たとするならば、それはトリアージと同様に「正しい」と私は認めます。私たちは今ここにいるからホロコーストを批判できるのです。当時、優生学の正当性、そしてホロコーストの正当性を信じていた人間にホロコーストを批判することなど不可能です。逆にいえば、ホロコーストを批判するには優生学の正当性、そしてホロコーストの目的の倫理的正当性および手段の合目的性をどうにかして反証するしかありえないというのが私の主張です。それ以外の方法であなたはどうやってホロコーストを批判できるのですか?聞かせてください。

補足します。あなたはイデオロギーの形成に正当な科学が使われるのを危惧しているのでしょうが、当時、優生学が科学として正当であったとしても、その優生学によってナチのイデオロギーが形成され、それが偏った見方であるならば優生学の観点からホロコーストを批判できると私は考えます。上の発言で「ホロコーストが不可欠であるという結論が出たとするならば、それはトリアージと同様に「正しい」と私は認めます」と書いたのはそういった偏りすら認められなかった場合に限ります。

コメント欄@説明責任ですってよ、説得ですってよ@過ぎ去ろうとしない過去
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080812/p3#c1218980854

私が「聞かせてください」と問われたわけではないのだが、このコメント欄の長い問答を眺めてこの発言にいたった瞬間、脊髄反射で「オレが殺されるかもしれないじゃん」と私は答えていた。上の人は目線が人類の救済にいっちゃている。頭でっかちなんだよな。グールドなぞ読む前にファウストでも読んだらいかがかと思う。

ファウスト〈第1部〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

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それはともかく。トリアージホロコーストにはトリアージが確率論として人間の生死を他者が決断するのに対して、ホロコースト決定論として人間の生死を他者が決断するという表象の違いがある。でもいずれも集団の話しだ。一人の人間が生きるというのはそんなに単純な話ではない。たとえば「ゆきゆきて神軍」で明らかになった、ニューギニアにおける終戦前後の日本帝国陸軍兵士同士による字義どうりの弱肉強食がある。奥崎謙三によって露呈したあまりにリアルなこの悲劇は上記のような確率・決定といった枠にとどまらない、生きるということの本質的な面を垣間見せる。餓死と人肉食のための同士討ちを潜り抜けた40年後に「生きさせてもらっているんだよ」と怒号する奥崎にとってその奥崎を1983年に生きさせているのは神であったが、そう信じるしかなかったのだろう、と私は思う。それは確率でもなく決定でもなく、運命としての生である。「ホロコーストが不可欠であるという結論が出たとするならば、それはトリアージと同様に「正しい」と私は認めます」などと高らかに宣言する前に、そうした極限状況にも想像を巡らしてみたらいかがか、とオジサンな私は思う。餓えているあなたは、人肉を前に「栄養は不可欠、リソースは限られている」などとクールに宣言できるだろうか。できたとしよう。そのアナログ・デジタル変換を行った瞬間、確率は運命となるだろう。人はそんなに強くない。
だからトリアージ経験にのたうちまわる医者を見る限り私は同情しトリアージの業の深さを感じつつその行為を認める。確率から決定への逡巡をなぎ倒すホロコースト決定論を憎む。あるいはあっけらかんと「それは正しい」などという人間はたんなる未熟者であると思う。

ゆきゆきて、神軍 [DVD]

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