官邸前の難民

タイミングがあうとうちの車に同乗するヒッピーのような長髪の宇宙物理学のドイツ人に「ヒッグス粒子もりあがっているねー、パーティーはどんな感じ?ノーベル賞だね」と今日聞いてみたら、「いやはや、残念なことだ、見つからない方が面白いのに」などと斜めな事をいうんでニヤニヤしてしまった。彼はたぶん「ノーベル賞は自分がとる」と思っているのである。

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原発事故によってその土地を奪われた人々は古典的な定義にしたがう真性の難民である。土地を失いすみかと慣れ親しんだ生活を捨て、持てるものだけを持ってあてどもなくさまよう、というのが難民だ。私もまたホンモノの難民の孫であり子供であるから、難民がどのようなものであるかを幼少の時から何度も聞いている。祖母の小さな引き出しの中に入っていた、背景がきりとられ人物だけが人型になっている数葉の家族写真は私の原体験でもある。

官邸前のデモの人々を私は写真や断片的な動画で眺めるしかないのだが、その姿にはどこか難民の趣がある。20時になればいつものねぐらもどるデモの人々は難民というには豪華すぎるのは確かであり、この想起は本物の難民に申し訳ない気もするが、趣、である*1。プラカードを手にし、「再稼働反対!」と声を上げ、太鼓をたたき、日の丸や白い風船を手にする。闘争というイメージからは程遠い。警察の誘導にすなおに従い、鉄柵と何台もの護送車に囲まれて、場所を譲りあいながら抗議をしている。困惑し、不安であり、怒っているが、柵をけとばすことはない。

難民のイメージが私の中に湧き上がるのは、ひとまずそこに老人や子供や母親がいるからだろう。難民という集団はあらゆる年齢層で構成される。そして非力さ。警察というむき出しの暴力を前にして従順に並ぶ人々は、何ごとかをえんえんと待ち続け長い行列を作る難民にどこかしら近しい。なによりもそこにあるのは、なにかを大きく失ったこと。官邸前の”難民たち”、彼らはなにを失ったのか。私の心に浮かんだのは、「国に捨てられそうである」あるいは「捨てられた」という意識なのだということだった。捨てるなよこの野郎、あるいは捨てやがったな、と、官邸国会及びその周辺の歩道に金曜の夕方やってくるパートタイムの難民*2

捨てられる、という感覚の根拠は別に原発の再稼働に限った話だけではないだろう。Baatarismさんが、消費税増税後の日本という記事で、経済成長率がマイナスになる暗澹たるフィギュアを丁寧に論じている。消費税増税はすでにいわゆる官僚用語でいう「日程に乗っている」からして、ほぼ確実に起きることである。それを駆動するのは原発の再稼働を駆動した力と同一である。あるいは、貧困化がこの何年も問題になっている。孤立した難民は日本国内に増大しており、餓死したり貧困の中で子供を死なせてしまうといった事件が起きているが、全ては「自己責任」と解釈するように世論は誘導されている。民間の努力のみがそれを下支えしようと頑張っている。が、国策で経済成長率をマイナスにすることが日程に乗っているわけであるから、なんとも大変敵を相手にしてしまっている。

なぜそんな馬鹿げた政策がまかり通るのだ、というなかれ。原発にしてもその危険性が90年代に「原発震災」という言葉で明確に警告されてきいたにもかかわらず、対策は考慮されることがなかった。あるいは国会事故調が指摘した問題は、2000年に出版された高木仁三郎さんの『原発事故はなぜくりかえすのか』にはっきりと書かれ批判されている。
なのに事故が起きた後の今でも新たな安全策は導入されず、事故当事者たちが以前の日常を継続し、指摘された問題は他人事である。雑駁な結論になるがこれらの状況から推察されるのは決定的に土地と人間が根こぎになり、世界に汚染をさらに広げ、科学技術が衰退し、人口が減り、経済をどん底に陥れるにいたるまで、おそらくこれらの愚行は続くということである。したがって、来るべき大多数の(そしてなによりも自ら)のフルタイム難民化という最悪を粛々と想定し、その後を見据えることがどうしても必要である。

いかに次の社会を再構成しうるのか。思うに官邸のみならず日本の各地に広がったデモは再構成の基礎演習にあたる。孤立した難民ほど弱い存在はいないだろう。しかし難民は集まることで集団となり、社会を形成することができる。デモを単なる抗議活動と捉えるなかれ。あるいはそれを目配せとどこかに消えてしまう共感で終わらせるなかれ。集まることはコミュニティを形成することなのだ。思えばこの数十年の日本において、日本の人々は日本という国とむき出しの個人として向きあう状況が亢進し、中間集団が解体する過程であった。動員されずに集まることは、大きな反作用点のポテンシャルを持つ。隣人と仲間の再発見である。

原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書)

原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書)

*1:避難民の人たちも参加しているので一部は本物の難民である。

*2:アクティビストの心性をもつ人間が金曜のデモに参加してみて「なんじゃこりゃ」と思うのは、その実態が難民的なものであるにもかかわらず、運動として捉えているからではないか。