官邸デモと書式システム

官邸を包囲するデモが毎週金曜日の夕方に行われ、週を経るごとに参集する人数がどんどん増えているのだそうである。私も東京にいたら出かけることだろう。デモというのは体感しないとわからないことがある。この点に関して5年前に書いたことがあるのでリンクする。

排除体積効果について

その場に存在することが、単にある一定の体積を占めるということにおいて意味を持つ、というこの状況はやはり体感しないとわからない。上の文章で書いたネオナチ締め出しの話は、排除体積効果として物理的な意味を持っていたが、そこまで科学的に美しい結果とならなくとも、抗議のその場に一定の体積を占めて一人の人間が存在することは、シュプレッヒコール連呼やさらには暴徒化といった存在を主張する行動以前にもっとも本質的で強力な抗議形態なのである。そこにいるだけで意味がある、というと、なにやら恋愛に目が眩んだ人間が口走りそうな台詞になるが、デモに参加する体験の意味は実に私的で直感的で肉体的なことだと私は思う。

官邸前で行われているデモの旗印は「原発の再稼働反対」である。この特定の点に関して私は官邸前のデモは何万人があつまろうがあまり意味を持たぬであろう、と思う。政治家の大部分、官僚、役人といった人々が、書式システムでしかなくなった行政と立法を駆動させることに恐るべき勤勉さで取り組んでおり、その駆動はもはや社会存続の価値とは無関係ではないか、と思えるほどになっている。別のいいかたをすれば、書式を埋め、書式システムを完遂するという行為において、そこに独自の観念的な社会が長らく運営され先鋭化しており、行政システムの担当者たちはその閉鎖された島宇宙の維持にコミットしている。彼らはそれを「現実」と呼んでおり、彼ら個人が「まずいな」と思うことがあったとしても、おそらくそれとは無関係に手続きは維持され先鋭化し自走している。

原子力行政もまたそうした書式システムの一部でしかない。書式システムの細かい穴埋めを行う上で、原発の再稼働は行政にとって手続き上必然なのであって、それ以外にはありえない。そのためにはどうしても原発は安全であり必要であるという判断が要請され、了解となり、「現実」となるのである。安全の実態がどうであるか、ということは無関係である。判断が逆転しているのだから。したがって何万人もの人がデモをし、たとえその情熱と存在が書式を埋める責務をおった人間の感情を動かしたとしても書式と書式システムの駆動とそのことが要請する手続きの「現実」はほぼ無関係な勤勉さとして進行する。それが原発事故のような形で人々の生活に本物の危機をもたらしても、書式システムは粛々と確実に駆動する… というのがこの一年私が目にしてきたことであった。

書式システムを別の角度から眺めよう。以下松岡正剛さんによるジョン・ラルストン・ソウル『官僚国家の崩壊』の読解から引用する。

iそもそも民主的な政府と合理的な行政が結びついたからこそ、ほぼこの2世紀のあいだに社会的なバランスが劇的に改善されたのである。jとはいえ、その過程で、なぜどのようにしてこの両者が提携するようになったかという実際的な認識が失われてしまった。その結果、両者の役割が逆転することになった。k管理することがしだいに目的と化し、民主政治の指導者はそれにしたがわざるをえないと思うようになった。

lその結果、民主政治の機能が衰えて、単なる手続きに堕してしま(った)。m効果と速度という技術的な道具のほうが価値があるとされるようになったのである。n合理的なメカニズムがこれほど容易に18世紀の哲学者の意図と正反対のことをするのに使われている。o言いかえると、社会全体のコンセンサスといった理念がむしばまれてきたのである。

p一つの国家で、また多くの国家間で、富と倫理がこのように操作されることに加え、完全にそれと平行する世界がのしてきた。金融世界である。qこの管理を欠いた書類上の経済がもたらしてきた影響は、社会に催眠術をかけるようなもので、それは企業買収の世界にあらわれている。

r現在は大いなるコンフォーミズム(体制順応主義)の時代である。西欧文明の歴史において、これほど絶対的なコンフォーミズムの時期はまずほかにないだろう。s精神、欲望、信仰、感情、直観、意志、経験――そのどれもがわれわれの社会の営みと関連していない。そのかわり、失敗した、罪をおかしたと言うと、われわれはそれを無意識のうちに非合理な衝動のせいにしている。

(しかしながら)t人間を全体的な存在としてとらえるわれわれの意識――つまり意識的な記憶――は徹底的に粉砕されたので、われわれはいかにして公の法人組織である当局をしてその行動の責任をとらせるかについて、何の考えももてない。(こんなことではおそらく)u詭弁と偽善の現代文明は、これからの10年間でその真価を問われるだろう。(そうでないのなら、せめて)v文明の真髄はスピードではなく、考えることに向かわなければならない。

(これまでは)w現代の解決策は、憲法と法律によって基準を設定することだった。xだが、憲法や法律は、われわれには容認しがたいほどに、それを管理する人の意志に支配される。(そこで、これからは)y社会全体として必要なのは、道徳を多様化することではなく、それを抽象化することである。zわれわれはいま、われわれ自身の過ちのなかにいるのだ。

そのようなわけで、私はデモが具体的に再稼働の決定を転覆させる、という点に関してペシミスティックである。再稼働の決定は、上に述べたような、あるいはジョン・ラスト・ソウルが「かんがえろ」と述べる自滅型システムの片鱗でしかない。昨今耳にする消費税増税という判断やら、科学者の人数だけは増大したのに2005年以降ガタ減りした出版論文数やら(大学にいる研究者たちが書式を埋めるのにますます忙しくなったという話をかねてより耳にする。彼らが書式システムの一部に併呑されつつある、というようにしか私には思えない)、私には同じこと、すなわち手続きが自己目的化したことの様々な側面であるように見える。自走する書式システムはそれが自壊するまで継続するだろうし、すでに変更可能な分岐点はすぎてしまった、と考える。もし変更を望むなら、デモは高度に戦略的である必要ーつまり真に政治的である必要ーがあるが、そうした戦略も見えない。

とはいえ。たとえ最悪の道が選択され国家がガタガタになり破綻したとしても、日本列島という土地に住んでいる人間は生活を継続する必要があり、その場を再建してゆく。この点においてデモというただそこに存在し一定の空間を占め社会を構成するという個別における本来の社会条件の実感は、粉砕されてしまった『人間を全体的な存在としてとらえるわれわれの意識』を少しでも復活させ、荒野となる社会を生き抜きながら何十年後かのもうすこしまともな社会を構成してゆく上で大いなる糧となるであろう、と私は思う。