悪の社会

要は「いまの社会は悪の社会だ」という認定をしている。
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20081223/1230004277

社会というとどのスケールの社会を指しているのかにもよると思うのだけど、この結論を眺めたときにすぐにオウム真理教のことを思い出した。オウム真理教は日本国家に対してハルマゲドンを設定した。このことから察するに「日本社会」を「悪」とみなして問題設定をおこなった。これは私からみるととても極端で、社会を批判する上での間のステップをいきなり踏み越えている。
一方、目下のfuku33氏にとっての問題設定はトラブルシューティング的な内容なのだろうな、と想像する。システムの駆動に不良が生じており、その不良には欠陥があるのだからそれを修繕してシステムを復帰すべし、というような問題。あるいはシステムの漸次的改善。などとこのところの記事をいくつか読んでいて思った。

市場を創造するのは技術ではなく文化なんです「Think! 2008年秋号」
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20081029/1225266814

技術伝達と文化伝播の違い
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20081031/1225423630

問題が組織をつくる
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20081105/1225865652

これはこれでとても重要な話だと思う。しかしこうした立場の内部では、システムそのもの自体の設計を問題の対象とすることは論の範疇にはないのではないか(それこそ先日浅はかであると私を指摘したマジシャンの人がいろいろくわしく説明しているが)。たとえば、東京郊外の電車の踏み切りで永遠と渋滞が続くのならば、いかにして電車の通過タイミングを渋滞が少ないように列車の運行ダイヤをデザインするのか。これはfuku33氏的な考え方だと思う。しかし、一方で、都市機能を変更してたとえば首都移転を本気で行う。あるいは、一極集中型の労働スタイルを変更するために、どのような福祉システムがありうるか。あるいはさらに我々はいかなる価値観の変更をせまられているのか。
システムの設計自体を疑い検証する、そうした想像を超えてしまうような行為が、単に別のレベルでの問題設定でしかないのにもかかわらず、「悪」ラベリングという二律背反的な行為にみえてしまっているのではないか。社会を批判することがすなわち「いまの社会は悪の社会だ」としている、と要してしまうあたり、私は身近にいてオウムに走ってしまった人々の鏡像(すなわち一足飛び)を再び目にしたような気になってしまうのだった(強調しておきますが、fuku33氏がオウムのごとし、といっているのではありません。ただ、「悪」とラベリングする理由、あるいは「悪」とラベリングしているとみなしてしまう理由を考えたときに似たような構造があるかもしれない)。社会システムを批判すること、というのは別にそれを悪魔のごとく扱っているわけではない。社会システムそのもののトラブルシューティングをいかに為すべきか、ということを論じているにすぎないのである。批判すなわち悪、ってなんか「日本の悪口をいうなんて」っておっしゃるタモ神将軍みたいではないですか。
・・・などと一足飛びを批判したあとに一足飛びのことを。生物のシステムは原子から社会まで階層的であって、さまざまな枠組みがミクロからマクロにつらなっている。そのそれぞれのレベルでの理論は、現状では階層を上下にうまく連続させることができないので、とてもややこしいことになっている。このあたり、うまく説明するような言葉が我々には必要なのだ、とおもうことしきり。横にはやたらと広く複雑に詳細になっているのにタテがダメダメ。