理解という許容

われわれが避けねばならぬのは、「理解するよう努める」ということの罠である。つまり、低線量被曝の確率的な健康被害が決着のつかぬ議論となる主要な理由は、誰もがそれを「理解しよう」と努めることにある。そういった態度の紋切り型の一つに従えば、「何が起きているかを説明しようとすれば、少なくとも広島長崎のLSS調査の統計的な手法とその解釈を理解し、測定誤差や精度の理論、内部被曝の臓器モデルなどあれこれについて知識を得なければならない」ということになるが、放射線の健康に対する影響の「複雑さ」をこのように強制的に喚起させることが結局何に貢献するかといえば、健康被害に注がれる疫学的眼差し、つまりは集団レベルで記述された健康被害に対して観察者(同時に被害者)という個人が保っている距離を維持することに貢献するのである。言い換えるなら、福島原発の事故以後の出来事が証明しているのは、「理解することは許すことだ」というお定まりの知恵がもつ愚劣さなのだ。為さねばならぬのは、まさにその逆のことである。311後の日本においては、いわば逆転した現象学的還元を行ない、われわれに状況を「理解する」ことを許す夥しい科学的知見、意味の多様性を括弧に入れなければならない。「理解する」ことの誘惑にあらがい、TVの音を切ることと同じようなことを行なわなければならない。するとどうだ、声の支えを失ったブラウン管上の人物の動きは、意味のない馬鹿げた仕草に見えるではないか……。「理解力」のこのような一時的宙吊りを行なうことで初めて、311後の危機において政治的、経済的、イデオロギー的に問題となっているもの、すなわち、この危機を導いた政治的計算と戦略的諸決定の分析が可能になるのである。

「低線量被曝の健康に対する影響」というトピックはそれ自体が既にシニカルな距離を内蔵している。今日シニシズムはどのように機能するのか。フロイトはある手紙の中で、新婚者についての良く知られたジョークに言及している。自分の妻がどんな顔立ちで、どのくらい綺麗かを友人から尋ねられたとき、この結婚したての男は答えた。「そうだな、僕としては好きじゃないが、まあそれも趣味の問題だね」。この返答のパラドックスとはこうだ。ここでは主体が普遍性の観点を措定するふりをしているのだが、(にもかかわらず)この観点からみた場合、「好ましいということ」はある種の特異体質、ある種の偶然的な「病理的」特性として現われ、そのようなものとして、考慮に入れられていないのである。そして、言表行為を支えるこの「あるはずのない」場は、現在の「ポストモダン」人種差別においても同じく見出されるのだ。ドイツにおけるスキンヘッドのネオナチ信奉者は、外国人に対して暴力を振るう理由を尋ねられると、社会的流動性の減少、治安の悪化、父権の崩壊などを引き合いに出して、突然ソーシャル・ワーカーか社会学者か社会心理学者になったかのように語り始めるが、これこそ「メタ言語は存在しない」と言ったときにラカンが念頭に置いていたことである。スキンヘッドたちの主張することは、それが事実として正しいにも拘わらず、あるいはより正確には、事実として正しい限り、嘘なのである。犠牲者が自身についての客観的真実を伝えることが可能になる言表行為の自由で中立な場をスキンヘッドたちが占めるとき、彼らの主張は言っていることとは別のことを示すことになる。現代のシニシズムを特徴づけるのは言表行為のこのあるはずのない場なのであり、そこでイデオロギーは自分の手の内を見せ、それが機能する秘密を露にするが、それでもなお機能し続けるのだ。

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告白しよう。上の文章はジェジェクが書いた文章の一部を言葉を少々入れ替えて書きなおしたものである。元の文章はこちらにある。

アンダーグラウンド』、あるいは他の手段による詩の継続としての民族浄化
http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic018/intercity/zizek_J.html

横暴な車の運転を行う人間に対して「やめてください」と注意したところ「あなたが事故に遭う確率はたったこれだけです」と反論され、なだめられたとしよう。あなたは理解するだろうか?さらにはそれを眺めていた第三者の歩行者が歩み寄り、「そうです、事故のリスクなんて実に少ないんですよ、実は私は保険会社の統計部におりまして」「あなたも車に乗るでしょう。便利でしょう。救急車がなかったら死ぬかもしれない」などとあなたを説得し始めたとしよう。あなたの心は「もしかしたら自分は間違っていたかも」と揺らぎ始めるかもしれない。

被害者を「ステークホルダー」と呼ぶことへの強烈な違和感が私にはある。放射線管理区域で生活するには放射性物質健康被害に関する知識が必要である。が、その「理解」は危機を導いた政治的な状況に対する受容あるいは適応、すなわち「理解」=ステークホルダーという図式に容易に敷衍される。信念の対立、加害者と被害者という立場の絶対的な差を「カッコ入れ」によって可視化せねばならない。「カッコ入れ」をエセ科学と批判する向きもあるかと思うが、これは見当違いというしかないだろう。科学のカッコ入れは、科学の否定ではない。科学は厳密であればあるほど価値判断をすることが原理的に不可能になる。しつこいようだが、この点が理解出来ない人間がやまほどいるようだからもう一度くりかえす。科学のカッコ入れは、科学の否定ではない。「リスク」もそうだ。被害者として加害者にその行為の非道を昂然と指摘するならば、「リスク」を議論に含めてはいけない。

実戦的には次のようなことになるだろう。健康に対する影響やリスクはなるべく詳しく調べ、理解し、日々の暮らしにおける防護に活かせば良い。ただし、被害は被害である。たったこれだけしか死にません、としたり顔で言い募る加害者ないしはその翼賛者たちに対し、健康への影響の知見やリスクの多寡など知らないような涼しい顔で、「あなたは確かに加害者である」と主張すればよいのである。なお、ステークホルダーは日本語で「利害関係者」のことである。被ばく住民には原発事故による利はない。一方的な害を被るだけの被害者そのものである。さらには原発をめぐる社会の構造的な問題、たとえばその国内植民政策としての問題、あるいは原子力基本法の改訂によって先日から国の安全保障と名付けられることになった原子力という存在の問題に関しても、まずは「理解」を宙吊りにし個人の立場から憲法の定める生存権を侵害された被害者であることを明示することでしか根本的な批判ははじまらないだろう。