The Formula of the End In Itself

めずらしく雪の積もった街を急ぎ足で歩く。
彼女と7年間一緒に暮らし、寝ていたネコが死んだときいたのは、どうしょうもなく忙殺されていたそのさなかだった。私も好きな黒くて、足の先が靴下を履いたように白い小さなネコだった。すこしだけ忙しくなくなった今、いつネコが死んだのかが気になってあらためて電話をかけてみた。2月5日だった。彼女が脳死で死ぬはずだった日だ。愕然とした。そんなこともあるのだな、と思った。ちょうど彼女が脳神経外科のICUに担ぎ込まれた1月下旬、350キロ遠方に暮らすネコは、彼女が昨年12月半ばの引越しの際に忘れていった靴におしっこをしたそうである。通常そんな行儀の悪いことをするネコではないのだが、その直後にネコは倒れ昏睡状態になった。2月5日に息を引き取った。
彼女はほぼ植物状態に近い状態になる。二日前におこなわれた10日ぶりのCTスキャンで驚くべきことが明らかになった。CT,MRIの画像診断でほぼ全滅とみられていた脳幹が復活し、逆に無傷といわれていた大脳皮質がボロボロになっていた。イギリスであれば、脳幹全滅、の判断の時点で脳死判定目前、脳死は人の死。臓器提供しますか?というお話とあいなるだろう。それが10日の間に逆転した、というのは驚き以上のものを私にもたらす。脳死っていったいなんなんだ。もちろんそれは人が与えた定義にすぎないのだが、こうも直面すると納得がいかない。
大規模な梗塞が、右左いずれにも生じている。残っているのは、言語や音楽を理解する部分。それまでの画像診断からはうまく説明のできなかった彼女の今の反応にフィットしている。おそらく運動機能は回復することはない。いや、回復するかもしれない。その可能性があるとしても時間はかかるだろう。以前なんどか聞いた松本元さんの講演を思い出す。松本元さんは、理研の脳神経科学研究センターを作った立役者である。晩年の松本元さんは「愛は脳を活性化する」なる、このタイトル、ちょっと恥ずかしくなるよなあ、という本を岩波から出版し、学会講演でもその話を繰り返していた。彼のその熱弁が頭によみがえる。今の私にできることは、まさに彼のいっていたことなのかもしれない。愛といえるほどの強い意志は私にはないかもしれない。でも実践は可能だ。

「あらゆる人格を目的として扱い、決してたんなる手段として取り扱うことのないように行為せよ」 "実践理性批判" カント

このカントの言葉にここまで直面することになるとは思わなかった。このログで私がこの言葉に触れたのは昨年の秋葉原通り魔事件のときだった。今私にとってこの言葉はまさに目前に存在しており、支えであり、希望だ。存在そのもの、である。