合成音声

大学の脳神経外科緊急外来の病室に日参し、夜は赤ん坊の世話をしている。”最小意識状態”の彼女は臓器にさまざまな問題が発生し、なかなかリハビリ病院にうつることができないでいる。日中は彼女の健康保険会社が払ってくれるお金で来ているお手伝いさんが掃除洗濯、赤ん坊の面倒をみてくれている。週末にはしばしばパリにすむ姉が助けにくる。夜はバーゼルの友人が仕事をうちゃって頻繁に泊まりに来てくれている。交代でミルクをやる。夕飯は友人一同が交代で運んでくる。さまざまな国の家庭料理を食べているが、特にトルコ料理の奥深さに目を見張っている。赤ん坊の散歩や世話も交代制。日本語、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語トルコ語、イタリア語、ルーマニア語ハンガリー語であやされるこの赤ん坊はいったいどんな大人になるのだろうな、と思う。赤ん坊でも男、だからかどうやらやはり若い女が好きである。さまざまな国の美女におちんちんをさらして”あー”とかいって、いい気なものである。それぞれの国にはそれぞれの国のあやしかたがあるだけに、見ているだけでもおもしろい。
病院では彼女のかさかさになった指にクリームを塗り、家では薄皮のようにぺなぺなな赤ん坊の爪を目を凝らしながら切る。赤ん坊も彼女も、私がなにかいったときに、うーん、これはちょっとだけわかっているのだろうか、というぐらいの感触があるだけで、結局はっきりしない。人に私がなにかいってもわからない、というのがあたりまえなことになった。
大学病院の駐車場は課金制で、4時間をこえると一日あたりの値段になって5ユーロ。夜に病室をでて駐車場に向かい、自動支払機にチケットを入れてお金を払う。車のエンジンをかけてゲートまで進む。ゲートのよこにある機械の横で止まる。機械には合成音声機能があって「チケットをいれてください」といかにも機械音声な男の声で自動的に繰りかえす。チケットを挿入する。ゲートがさっと上がる。間髪をいれず機械が"Auf Wiedersehen"と発声する。そのたびに、機械は喋れる、赤ん坊も彼女も喋れない、と一瞬思う。窓を閉めながら私は"Auf Wiedersehen"とつぶやく。