不確かさと武術・科学

《武の技を練る稽古が、剣道における「地稽古」、柔道における「乱取り」という、模擬実戦の形態による稽古法では、慣れの延長線上である、ソフト面の発達以上のものが容易に得がたいことは、すでに述べたとおりですが、型稽古もたんに手順をおぼえるだけの形式に堕してしまったら、そこで養成される伎倆は、司馬氏が『北斗の人』のなかで書かれたように、「地稽古」「乱取り」によって得られる技術以下のものになってしまいます。つまり、型稽古は、それを行うものにとって、模擬実戦の稽古法にくらべ、遥かに高いレベルのセンスを要求されるのです。正直に申し上げれば、私は、そのことを近年になってようやく身にしみて感じるようになりました。そうなってから、あらためて、型の見直しにはいっています。》(『剣の思想』p68-69)
《私はとにかく繰り返し稽古して身につける基本の動き、というものに非常に懐疑的なのです。それでも学ぶ人は稽古しないわけにはいきません。ですから、私は稽古する時は、「これをやればいいのだ」などと夢にも安心して行ったりせず、常に自分の感覚の不確かさを自覚して、「それでもやらずにおれないからやる」といった気持ちで取り組むべきだと思います。》(『剣の思想』p191)
偽日記07/05/21(月)の引用部分より

科学と似ている。徹底的に型を仕込まなくてはいけないけれど、型どうりにやっていては科学にならない。でも型はやらんといけないのだよな。この場合「それでもやらずにおれないから」というよりも、不確かな自然界をうろうろとさまよい、最後のギリギリのところで型が出る、みたいな感じかもしれない。