極私的選択

個々の人間がもっともその個人が望ましいように生きることができる社会態勢を整備する、という観点からは少子化は問題にならない。個々の立場からは子供を産むことが難しくなるような環境と人生の選択肢が判断の要素なのであって、少子化だから産む・産まないということではないのである。「私が産むこと」は「隣人が産むこと」や「友人が産むこと」とは置換不可能である。したがって「産む人間」にとって少子化は問題の対象にならない。極端なことをいえば社会がどうであれ、私は産む、のだから*1
一方、社会という関係性そのものの作動状況という視点において少子化は問題の対象となる。機械、デバイス、といった関係性の要素を意味する用語を使うことでそれを表現しよう、ということになるのも、社会そのものの存続がトピックであるからだ。したがって少子化は「産む機械」の問題なのであり、目下の枠組みで言えば本質的に国士的言説となる。
社会全体の人口が減少しているか否か、ということと個々人の幸せは、その相互関係の時間のスパンの違いから接続することが難しい。そこで接続させる力として浮上するのがたとえば国家の存亡といった一部の人にとっては焦眉の課題、一部の人にとっては恫喝、さらに一部にとっては無意味な形式である。
産むという行為が現代社会において極私的な選択にほかならぬということは、先進諸国における非嫡子率と出生率の正相関を見ても明白だ。今や結婚というもっともミクロな社会契約でさえ阻害要因になっている。だとしたら、産むという極私的選択を阻害している環境要因を取り除けばいいだけである。「国家の存亡」説は阻害にこそなれ振興にはならない。選択は極私的に、支援は社会的に、ということになる。

*1:たとえば映画『Children of Men(トゥモロー・ワールド、2006)』を参照せよ。