宮藤官九郎における”家族”

2000年の日本のテレビドラマ「池袋ウエストゲートパーク」を見ている。全11回の半分ほど見終わった。宮藤官九郎のドラマはこれで3つめなのだが、テーマが一貫しているということに気がついて、実はその部分が自分にとって一番おもしろいのだ、ということに気がついた。
一番最初に見た宮藤官九郎のドラマは2002年の「木更津キャッツアイ」で、ドラマ経験値の少ない私に元ニュートラルのおやっさんが”絶対に見ろ”と断言するので昨年DVDを買って見てみたら結構おもしろかった。私は昔から野球はやるのも見るのもダメなので野球に対する思い入れの部分はどうでもよかったのだが、そこに描かれる人間関係のほうにいろいろと思うことがあったのである。しばらくしてから2005年の「タイガー&ドラゴン」をとある週末に一気に見た。宮藤官九郎ならば見てみようということでビデオを借りて見始めたのだがこれがなにしろとても面白かった。ビデオ一気である。これが半年ほど前のことだが、このたびは上の二つのドラマよりもさらに昔の「池袋ウエストゲートパーク」を見てみることにしたのである。やはりとても面白いのだった。日本語を聞いているときに「これを英語にするとどうなるか」となにげなく思ったりするのだが「小池さんはラーメン、黄レンジャーはカレー、俺の場合やきそば」という台詞を聞いて、これどうしよう、としばし本気で考えた。もちろん、翻訳不能である。
三つのドラマはいずれも日常を描く。舞台はそれぞれ池袋、木更津、浅草である。こうした固有名の領域から舞台は外れることなく、しかもその領域の中に要素としてあたかも固着しているかのように存在している人間のネットワーク・コミュニティの中で事件は起こり、展開し、解決され、日常へと回収されてゆく。これらの地域が今までも存在してきたように、こうしたネットワーク・コミュニティが登場人物こそ変われ永遠に存在し続けることを鑑賞者に予感させながら話は進行してゆくのだ。登場人物の家族構成はいわゆるモデル的な家族ではない。親がいない、子がいない、家族自体が破綻している、あるいは家族との関係において破綻している、といった設定である。この家族レベルのスケールをそのまま拡大したかのように、登場人物の社会における位置もまた、一般的な意味で破綻している。すなわち無職、ひきこもり、やくざ、ストリートギャング、売れないアパレル、風俗、客のいない飲み屋、などなどだ。しかし、三つのドラマはいずれも一般的な意味での破綻を徹底して肯定する。なぜならばそこには不動の地元があり、仲間がありネットワークがあるからだ。それは仲間同士で飯を食うシーンとして三つのドラマの中で執拗に繰り返され、「タイガー&ドラゴン」にいたっては落語の師匠の家におけるさながら100年前の大家族のような食事のシーンに至るのだ。破綻なのではない、「これが家族なのである」という社会的な主張である、と私は思った。そんな”家族”を見ていると、引越しを繰り返して「地元」なるもの、あるいは”家族”のない私はうらさびしい気分になる。これほどの確固たるもののない私はものすごく破綻している、という思いがつのるのだ。すなわち根無し草だ。でもどうなのだろうか。超流動社会の中で、「家族」も”家族”も失い根無し草なのがいまや最も一般的な日常なのではないだろうか。だとしたら三つのドラマは旧来の規範を否定し、現実の日常を称揚しつつ規範を再規定しているようでありながら、夢物語に他ならない、ということになる。宮藤官九郎のドラマがもてはやされるのももっともな話であり、私がおもしろい、と思うのもまた無理はない。